こんな本を読んだ!」カテゴリーアーカイブ

本を読むことはあまり得意じゃないのですが、頑張って読んでいます。
 
このカテゴリーの目次はこちら→こんな本を読んだ!

【本】 ケン・リュウ『紙の動物園』

アメリカのアジア人作家という意味では現代的だが、内容的には懐かしい雰囲気のセンス・オブ・ワンダー。
東洋的な部分と西洋的な部分が混じりあいそうで混じりあっておらず、一部対立しているところが興味深い。

主人公があくまでストイック。
ドラえもんで言えばのび太が主人公でない、出来杉君やしずかちゃんが主人公のような、広がらない物語が多い。
例えば表題作「紙の動物園」、主人公は生きている折り紙を使って調子に乗ることはない。
利用したり喜んだりしない。
センス・オブ・ワンダーな遊びに主人公はあくまで禁欲的な態度で接するのだ。

(いくつかの例外があるが)基本はそういうテイストの物語が多くて、そこが僕には不満だった。
もっと弾けてもいいじゃないか。
自由に物語が飛躍しない。
後天的に物語り始めた優等生が書いたSF小説のような印象。

【本】ドミニク・オブライエン『記憶に自信のなかった私が世界記憶力選手権で8回優勝した最強のテクニック』

これだけの記憶力を持っている著者も学習障害に悩まされたらしい。
人の話していることが頭に入りにくかったという。
僕も同じ症状だったからわかる。
学校でも先生の言葉が頭に入らず授業中に集中できなかった。
黒板やプリントなど文章化あるいは図解化した情報は頭に入りやすかったのだけれど、リアルタイムで流れる情報を頭の中で整理する方法がなかったのだ。
エピソード記憶によって覚える方法でそれを克服したとのこと。
最近記憶について調べて自分の足りない部分を強化するために読んだのだが、思いのほか役に立ちそうだ。

【本】ロジャー・ゼラズニイ『ロードマークス』

道路の傍らに立つアドルフという名のチョビ髭のドイツ人(!)に
「この先でお前がトラックで事故を起こして死んでいるのを見た」
と告げられるところから物語は始まる。
その道路を走っていると時間が正常に流れないようだ。
レストランで
「前はもっと歳をとっていた」
と言われる主人公。息子までが登場する。
はては十字軍時代の老人やティラノサウルスを操るサド侯爵、果ては宇宙人に作られた殺戮ロボット、無敵の殺人兵士などが現れる。そしてその道路を支配するのはドラゴン。
かように混沌としたガジェットが乱暴に放り投げ出された世界を、幾つもの平行して物語が流れる。
通常の物語作法で進んでいかないので混乱するばかり。

手に取るとツルンと逃げていく不思議な感触を持った小説。
(なのに不思議な魅力がある)

【本】エドガー・アラン・ポー『モルグ街の殺人・黄金虫』

夏目漱石が作った当て字の「ロマン」が「浪漫」で広まったように
「二葉亭四迷」から生まれた「くたばってしまえ!」、
そして「エドガー・アラン・ポー」から生まれた「江戸川乱歩」。

ポーは、僕の好きな小説ジャンル「奇妙な味」の元祖の作家。
幻想と論理のはざまの作家であるが、この短篇集の収録作は僕の(比較的)好きでないほうの論理/ロジック寄り。

推理、暗号、密室殺人、探偵モノ……ミステリ小説の原型がここにある。
ミステリと言っても問題解決は後出しジャンケン、読者が謎解きを楽しむことができるタイプのものではない。
しかし全体的にオチにむかって収束(ドンデン返し)していく物語作りがされており、一九世紀前半にして物語の快感というものを自覚していることに驚く。

ある人にとっての悲劇は他の人にとっての喜劇で、この短篇集の底辺には恐怖の裏側にある「黒い笑い」に満ちている。
「ホップフロッグ」のラストが典型的なそれだし、
「盗まれた手紙」の警視総監から金を巻き上げるところ、
「おまえが犯人だ!」の腹話術、
物語のその場にいる人は笑えないが、引いた視点で笑いになっている。
これこそ「奇妙な味」の元祖たる所以。

【本】ロジャー・ゼラズニイ『伝道の書に捧げる薔薇』

物語自体は古い……というよりもオーソドックスなものだが、その物語を飛躍/深化させるための、実に効果的なセンス・オブ・ワンダーが、絶妙なバランスで混ざり合っている。
寺沢武一氏がよく言う「新しい皮袋につめた古いぶどう酒」はゼラズニイ氏がまさしく体現していること。
(ちなみにこのことわざ、ルカによる福音書「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」が元ネタのようで……新しいぶどう酒を古い革袋に入れたら発酵するとき皮袋が破裂して駄目になるから、新しいぶどう酒は新しい皮袋にちゃんと入れましょう……という意味だった!)
たとえば表題作は火星というSFでは使い古された(陳腐な)設定なのだが、今までのSFで扱われなかった伝道書というガジェットがアクロバティックな作話術によって紡がれると、手術台の上のこうもり傘とミシンの出会いのように美しい。
そして

星野之宣氏も『ベムハンター・ソード』や『二〇〇一夜物語』であきらかに影響を受けている短編がある。
八〇年代以降は忘れ去られた感のあるゼラズニイが、八〇年代以降も影響を受けたクリエイターに繰り返し引用されていたことを、この短篇集で知る。

【本】ロジャー・ゼラズニイ『光の王』

もっとファンタジーかと思っていたら思ったよりSFしていた。
神々の命の雑な扱い方がその世界の価値観を提示していて面白い、これぞセンス・オブ・ワンダー! 
エンタメ要素(格闘技や戦争)を挟んでいて読んでいて飽きさせない。
読み終わった後も、壮大なスケールと物語世界に思いを馳せている。
キャラクターが魅力的。漫画的だが哲学もある。ハッタリがとにかくうまい。
ゼラズニイ氏は先天的な(生得の)物語る人だったんだろうな。

【本】成毛眞『本棚にもルールがある』

意外と重なっている部分が僕にもある。
著者の推奨している資料棚と進行中棚と見せ棚は便宜上以前より作っていた。

けっこう断定口調でクセが強い。
いわく仕事の本は本棚に入れない。
いわく本棚にフィクションや漫画は入れない。
一番びっくりしたのは「「サイエンス」「歴史」「経済」の入っていない棚は、社会人として作ってはいけない」
う〜ん、余計なお世話!

ただし著者の熱意は暑苦しいまでに伝わってくる。
この本を読んで何もリアクションをしない人は、本に対して自信のある人かよほど興味のない人だろう。

【本】ジョン・ウィリアムズ『ストーナー』

ずっと涙が止まらない。
これは文学的感動なのだろうか? 
この本は人生を追体験させる装置のように作動している。

この涙の量は人生に比例すると思う。
一〇年前に読んでもそれなりに感動しただろうけれども、絶対に今ほどでない。
僕のような空虚な人間であっても降り積もる時間と経験の重みがあるはずで、この小説はきわめてたくみに切り取って目の前につきつける。

主人公の人生の経験を、都度の自分に当てはめ思いを馳せる。
人生には悲しみがある。でも逃れることはできない、生きていくしかない。諦観とほのかな希望。

【本】出口治明『本の「使い方」』

出口氏は読書に対価を求める功利主義的なものを否定し、読書を楽しみとしてあるいは「毒」として定義するが、この本のタイトル自体がそうでないことの矛盾。
そもそもライフネット生命創業者としての出口氏のプロフィールを知っていたら、この本を手にとった人はまずこの本を読読書の楽しさを知ろうとするより、いかにして読書を仕事に(生活に)役立てるかということに重きが置かれるだろう。

出口氏はビジネス書に否定的で、成功者が書いている結果論だからよくないとのこと。
でもこの本を読む人は出口氏という成功者がどういう風に本を読んできて血肉にしたのかの片鱗を知ろうとするわけで……
う〜ん、アンビバレンツ!

純粋に面白い本を紹介するだけだと売れないから功利主義(実利主義)的なものは必要だろうけれども、その要素が強ければ強いほど純粋な読書人は鼻白む。
バランスが難しいけれども、おそらく純粋な読書人のほうが少ないだろうからビジネス的にはこれが正しい。

ビジネスとは関係なく著者が純粋に面白いと感じた本の紹介がいちばん興味深い。
できるかぎりメモして読むことにする。

【本】フェルディナント・フォン・シーラッハ『禁忌』

読み終わってキツネに包まれた上につままれたような気持ちになる。
ここで描かれている出来事はわかるけれども、登場人物がどうしてそうしようとしたのかが理解(感情移入)できない。
はっきり書かないからこその価値だと思うのだが、
登場人物の立場を自分に置き換えて想像しようとしても、登場人物のその想定されうる考えていることがあまりに自分と価値観が違いすぎて想像できない。
第一章までは面白かったのだけれども…………………………

芸術家である主人公が、芸術系大学に七年在籍していた自分と共通項が多いがあまり、微差に必要以上の違和感を感じてしまうということだろうか。
日本と韓国の関係のように。
(そんなたいしたもんじゃないよ!)

【本】武者小路実篤『友情』

巻頭の自序に度肝を抜かれる。
著者自身がオチ書いてますやん!
『吾輩は猫である』で、この猫は最後に死ぬんですけどね……って書くようなものだ。

そして親友の大宮が同人誌に発表した内容にも仰天する。 
どう考えてもいやがらせではないか。
僕からすれば大宮は、いい人と思われたいためのアリバイをまき散らしている嫌なやつだ。
主人公のことを才能あるなんて思ってない。
才能も人格も見下してるんだ。
そして残念ながら……ほんとうに主人公はその程度の人間なのだろう。
自分だって

ヒロインの杉子を、僕の祖母と同じ世代の女性……と思い読んでいるとイメージ上の顔に祖母が重なってどんよりする。

久々にインパクトのある読み物だった。
武者小路実篤恐るべし!

【本】富安健一郎 上野拡覚 ヤップ・クン・ロン『ファンタジーの世界観を描く』

副題は「コンセプトアーティストが創るゲームの舞台、その発想と技法」

僕は絵を描くことに隣接した仕事をしているが、この本に書かれている直接的には関わりがない。
だからここで書かれていることがどの程度役に立つかはわからない。
しかしどういう仕事であれ、自分の仕事に引き寄せて考えることはできる。

世界観をつくることと、世界観を効果的に見せることは近いが遠くにある(逆説的に遠くにあるが近い)、ということを考えさせられる。
キャラクターの成り立ちや世界を考えることとイラストとして完成度を上げるための細かいテクニック。

漫画で言えば絵を描くこととストーリーを作ること。
絵の内容を考えることと描写すること。
この二つは絡みあうが場合によっては対立する。

どんな能力も単一では成り立たず、得意なことから放射線状に周囲に広がっていく。
それが物語からか絵からかあるいはその真ん中か、生まれつきの能力というものはまばらに飛び散った点のようなもので、努力や経験によって点のいくつかを円状に広げて、隣接する点を重ねていくことが才能なのだろう。

そうなってくるとアメコミやハリウッド映画みたいな完全分業体制ってどうなんだろう。
逆に堀井雄二氏など最初はプログラムから絵から全部一人で作っていた。

ものを作ることが、離れていること(場合によっては相反すること)を包有する(結びつける)ことなのだということに思いを馳せる。

【本】オキシタケヒコ『波の手紙が響くとき』

個人的に初めてiPadを使って読んだ漫画以外の書籍。
新しいデバイスで読んだ内容にふさわしい新世代の力を感じさせる小説だった。

独立した短編の、伏線と感じなかったさりげないつながりが、ラストに向かって有機的に絡み合っていく構成のたくみさに舌を巻く。
音ひとつから始まった掌編が、プリオンから宇宙に至る極小から極限を行き来する怒涛の物語展開!
アクロバティックな想像力と事象を掘り下げる力、センス・オブ・ワンダーの新鮮さ……
音だけでこんな芳醇な物語世界を紡ぐことができるのなら、他のテーマならどうなるのだろう。
この人の次の作品をぜひ読んでみたい!

【本】スタニスワフ・レム『泰平ヨンの航星日記』

骨の折れる本だった。
五〇〇ページの小説をトータルで一〇時間、期間を一週間かけてようやく読了。
僕にとって通常の本の倍以上のペース。

「泰平ヨン」というヘンテコな名前から、小松左京『明日泥棒』に出てくるゴエモンみたいなものを想像していたら……思いがけず常識人、変な事件に巻き込まれてもあくまでツッコミを入れるだけ。
その世界の人達と必要以上に仲良くならない、あくまでも鑑賞者・傍観者としての役割だ。
家族や恋人など人間関係のバックグラウンドも極めて希薄。
もうちょっとキャラクターが立たせたり、目的を持たせてもよかったのではないかと思う。

短篇集なので一気読み出来なかったというせいもあるが(中断するたび設定を確認するため個々の短編冒頭からさかのぼって読み直し)、
基調は筒井康隆氏のようなスラップスティックなのにも関わらず、ギャグがエスカレーションするたびに膨大な文字数を使って説明するから、もう、面倒くさい。
単純にナンセンスで終わらせればいいことでもイチイチ理屈が入る。
理屈をこねること自体がナンセンスなのかもしれないけれども、僕にとっては面白い部分を相殺するいきおいで面倒くさいことが始まるから、事態が飛躍するたびに無意識に飛ばし読みしてしまう。
そして飛ばし読みしていたことに気づくとまた戻って読みなおす。
しかし油断しているとまた飛ばし読みする。
……そんな僕の無意識と意識の戦いが、この小説上で繰り広げられていた。

ナンセンスに理屈をつける/あるいは理屈をつけるていのナンセンス……を入れるのは、当時社会主義国家だったポーランドで発表された小説だからなのか。
(個人の楽しみのためのナンセンスは許されない!みたいな)
それともレム氏のくせなのだろうか。
レム氏に関しては今までシリアスな長編ばかり読んできた僕は非常に戸惑った。

ただ、この短篇集は、それら長編に匹敵するほどのスリリングな思考実験が入っていることには間違いなく、この本を読みきった自分を褒めてやりたいのと同時に今まで読んでこなかった自分を罵ってやりたい。

【本】スタニスワフ・レム『泰平ヨンの未来学会議』

前作【本】『泰平ヨンの航星日記』スタニスワフ・レムは短編集だから設定や面白さを優先にして泰平ヨンというキャラクターを意図的に薄く描いているのだろうと思ったが、長編である今作もよくわからなかった。
レム氏の描き方がそういうものなのだろう。

それでも長編だからかさすがに泰平ヨンに恋人らしきものができてもそれにしてもそっけなすぎる。
恋人より、知り合いの教授のほうが自分にとって(世界にとって)重要ということなんだろうか。

読んでいて筒井康隆『脱走と追跡のサンバ』、眉村卓『幻影の構成』などが頭に浮かぶ。
あるいは映画『MATRIX』、『インセプション』、『トータル・リコール』、『ビューティフル・ドリーマー』……現実と夢の境界線が曖昧な、悪夢のような世界でもがく主人公、現実を何度も飛び越えても見えてくるのは新しい夢世界。
スラップスティック・コメディ風に描かれた夢は、シリアスな悪夢よりも恐ろしい。

【本】野崎まど『野崎まど劇場(笑)』

『野崎まど劇場』野崎まどhttp://matsudanozomu.com/?p=13483の続刊。

登場人物が重なった連作短編でもなく、ジャンル小説(SFやミステリ)でもなく、「独創的な」短編を集めるという縛りならこれ以上のものを作ることは困難。
だがその困難さに見合うだけの評価を得られにくいという茨の道を、野崎氏は進んでいる。
いや、自ら茨の道を作っているとでも言うべきか。
打率が高い。
全部が全部ヒット性のあたりとは言わないが、むしろこれだけ方向性の違う方へ打ち続けること自体がすごい。

最後の方は小説の形でない、もう漫画とか一コマ漫画と言っていいレベルのものまで収録されている。
ネタ切れ?
いや、新しい領域にまで達したと考えるべきだろう。

個人的には刺激的な短篇集だった。
ずっと悩んでいた僕の方向性の道標になるかもしれない、一筋の光。

【本】スタニスワフ・レム『泰平ヨンの回想記』

ここ数日、あと一〇〇ページを切っているところでページをめくる手がにぶっている。
決してつまらなくはなくむしろ知的好奇心をくすぐる内容で、こんなことよく考えるな〜とは感心はするのだが、肝心の文章や物語の波長が僕に合わないようだ。
中断を繰り返しながら最後は飛ばし読み、鼻をつまみノドの奥に流し込むように読了。

同じ短篇集の『泰平ヨンの航星日記』http://matsudanozomu.com/?p=15630に比べ思考を追うものが多くなっていて、物語がない(ほぼエピソードだけの)ものまである。
しかし抽象度が高いからつまらなくなったということはなく、『泰平ヨンの航星日記』と面白さの打率は変わらない。
ページ数が半分くらいな分だけボリューム不足感はあるが。

あと、地球が舞台という違いがあるが、『泰平ヨンの航星日記』にも地球が舞台の物語があるし、この短篇集にはさほど地球の固有名詞も出てこないし地方色もない。
そこは大きな違いはない。

泰平ヨンが科学者に会いに行き/科学者が会いに来て、ビックリする事実を知り、その事実を引きずりつつ日常に戻る……このパターンが多い。
思考の飛躍(センス・オブ・ワンダー)を物語化するため科学者が必要なのだろうか?
いま読んでみるとそんな疑問がわいてくる。

メカや宇宙人などわかりやすいSF的ガジェットが必要だった時代なのだろうか?
あるいは東欧諸国ならではのSF小説のルール?
今なら日常と非日常をジョイントするために、こんなあからさまなSF的ガジェット使わない。
でも当時だってニュー・ウェーブ (SF) の動きがあったわけで……
研究者だったレム氏が、思考を一番手っ取り早く物語化できる手段が科学者を使うことだったのだろうか。

【本】トニー・ブザン『記憶の法則』

二五年前の書籍だが、すでに古典的な風格すらある元祖記憶術の指南書。
この書籍が出版されてからずいぶん記憶法も進化したようで、いま主流である場所を使って覚えるロキ(ジャーニー)法は含まれていない。
数字をまとめて覚える方法(数字変換法)もあまり洗練されていない。
しかし、記憶は脳の性質に大きな個人差があるため、メモ術や勉強法同様これをマスターすれば完璧というような万能の方法はない。
雑多な方面にまで網羅されているので、基本に戻って自分に合うシステムを探すには有用だろう。

記憶法の本を他に読んだことがあるなら、読めば理解がより深まるのではないか。
僕にとっては、記憶法がどう発展していったか知るうえで興味深い書籍だった。

【本】宇都出雅巳『「1分スピード記憶」勉強法』

いくつかの記憶法をハイブリッドしてわかりやすくトピック分けされた、サプリメントのような勉強術。
世の中には理屈(思考の道筋)を追うことが好きでなく結論だけ読みたい人もいるみたいなので、そういう人にはちょうどいいのではないか。
僕は経験上、バックグラウンドにある理論を納得しないとメソッドを実践するかどうかで躊躇するので、最小限しかない本書は少し物足りなかったりする。

僕ぐらいの中途半端なポジションでなく、自分なりの記憶法が確立している人ならサブテキストとして活用することができるかもしれない。

【本】トルーマン・カポーティ『冷血』

取材している主体(作者)が登場しない。
インタビューできない登場人物(被害者・死人)の心情を作者が代弁する。
前後の状況は克明に描かれるのに、肝心の犯行シーンは間接的な描写(証言や裁判で描かれたもの)のみ。

ノンフィクション小説として読んでみると不思議なつくり。
ドキュメンタリーで言うと再現ドラマの範疇だ。
そういう事件や歴史物の再現されたものでも、最近テレビで放映されているものは前後にインタビューを挿入したりして真実味を担保することが多い。

「当日の被害者の気持ちを何でお前が知っているんだよ!」
しかし、そもそも事実を正確に再現することはできない。
インタビューならば、された人のとした側の主観が入る。
当事者が書くと書き手の主観が入る。
完璧な資料があったとしてもそれを取捨選択することで主観が入ってしまう。

この小説のリアルさは、取材を通して知った事実をふまえるとこう考えるであろうことが最大公約数として導かれる、というレベルのリアルさなのだろう。
(大きな誤差はないだろうということ)
この誤差があるから真実でないと捉えるか、積み重ねられた事実を蓄積して作られたいちばん事実に近い真実と捉えるかは、それこそ考え方次第だ。

【本】井ノ口馨『記憶をあやつる』

でも脳科学はやっとアメフラシやハツカネズミの頭のなかがうっすらとわかった程度。
それから二〇年後の未来の人工知能なんてたかが知れすぎている……

スリリングな思考実験を提供してくれる書籍だが、腑には落ちることがない。
消化できずにノドに挟まったままのような読後感。

『ゼンデギ』と関連して思ったこと。
キャラクターは、作り手が観客に向けての共同幻想を介したローカルな人工知能のbot。
同人誌や二次創作でbotが作り手の手を離れて動き出す。

宗教そして神こそ共同幻想のbotの最たるもの。
聖書や預言者を介して神は言葉を伝える。
人工知能が神になる短編を星新一氏は書いていたが、共同幻想が本当の神を作ることもあるかもしれない。
(三浦建太郎氏の『ベルセルク』はそういう設定?)

【本】グレッグ・イーガン『ゼンデギ』

先日読んだ同じイーガン氏の『白熱光』に比べると、これはだいぶ普通の小説で肩透かし。
普通に起承転結がある、構成がさほどトリッキーでない。
しかしイーガン氏はやはり一筋縄でいかない。

舞台は二〇年後のイラン。
癌に侵された主人公が死ぬ前に自分の思考をコンピューターにアップロードする。
ヨーロッパのジャーナリストだった主人公は友達(死後、子供を引き取ろうと言ってくれた)のイラン人の倫理観が信用出来ない。
そこでアップロードされた自分の人格(人工知能)に、子供を教育させようと考える。

SF系の読書会に参加するとこの小説に対して肯定的な意見が多かったので驚愕。
善意の友達を信用できず自分の分身を作ろうとするこの小説の主人公に僕はとうてい感情移入できない。
そもそも、その行為自体が倫理的にダメではないか。

今から毛が生えたレベルの人工知能って、高度なbotにしか過ぎない。
最適な言葉を選んで言うだけで、人間のような思考ルーチンはない。
外から見て人間と変わらないリアクションをとる、というだけで魂のない存在に倫理観を託すぐらいなら、元ジャーナリストなんだから口述筆記(Siriのようなものも相当発達しているだろう)で言葉を残せばいいじゃないか。
SF的設定にするために無理に作ったプロットのような気がしてならない。

【本】井ノ口馨『記憶をあやつる』

最近僕は脳の可塑性について興味があって、その脳の中の記憶についての書籍。
この数十年、脳内ビッグバンといってもいいぐらいの脳に関する学問が進化しているとのこと。
大脳生理学では追いつかず、分子生物学や遺伝学などいろんな隣接する化学を統合したニューロサイエンスという学問が登場したとか。
これから人工知能のようなものが作られるなら量子力学までが必要になるかもしれない。
まるでヴァン・ヴォクト『宇宙船ビーグル号』の主人公が総合科学(Nextialism)で宇宙怪物に立ち向かうみたいで、ワクワクする。
しかしまだ生まれたばかりのこの学問、記憶の固定や移動がハツカネズミやアメフラシを使った実験に終始していて人間の脳の段階に至るまで程遠い。

フィクション世界ではもうすぐ『ドラえもん』のアンキパンや『トータル・リコール』の時代がもうすぐ到来するというのに。

【本】トルーマン・カポーティ『ティファニーで朝食を』

この短篇集は、『冷血』に至る直前のカポーティ氏最後のイノセンスな輝き。
感覚的なところがあるので完全に意味を把握したとは言いがたいが、僕なりに楽しく読むことができた。

この短篇集は初期作品と『冷血』の橋渡しとなるもので、共通する要素を含んでいる。
カポーティ氏の小説に共通する要素……
田舎の閉塞感からここでない何処へ行きたくて辿り着いた都会で心を虚無に蝕まれる。
檻の外へ出たらまた新しい檻だった、そしていまの檻から過去の檻を懐かしんでいる。
表題作の『ティファニーで朝食を』にはそんな要素がまぎれもなく残っている。

しかし『ティファニーで朝食を』はそれだけではない。
それまでの自分の経験をもとに感覚的に描いた物語と異なり、ホリーのような実在の女性(他社の経験)を素材に使い、小説特有の大胆な飛躍をせず(小説技巧を制限)、実際にありそうなエピソードで構成されている。
文体もウェットものから、抑制した乾いたものへ。
カポーティは戦略的転換をはかったのだ。

長い活動期間に比して作品数が少ないのは、次第にカポーティ氏は手持ちのたまが少なくなっていったのだろう。
カポーティ氏は自在に物語を生み出すというより、体験/取材したことから作り上げるタイプだったのだ。
『ティファニーで朝食を』は小説(フィクション)の体をとっているが、それ以前の作品に比べるとはるかに現実に近い。
『冷血』の一歩手前といえるかもしれない。

『ティファニーで朝食を』は成功したが、さらにこの作品を越える素材を手に入れるため、陰惨な連続殺人事件を取材することになる。
連続犯に囚われ死刑に臨席し、『冷血』を完成させ、とうとうカポーティー氏は素材に飲み込まれてしまったのだ。

【本】マルコス・マテウ-メストレ『クライマックスまで誘い込む絵作りの秘訣』

その独特の論理展開に、アメコミと日本の漫画との違いを僕に考えさせるきっかけになった。

アメコミ作家でありアニメーターである氏のコミック……というより一枚絵の指南書。
日本のマンガと違いアメコミは線より形、白黒の面積が重要みたいだ。
白黒の面積比によって記される構図の分析は興味深い。

アメコミは一枚絵で動きを表現しない。
コマの組み合わせで動きを表現するが、決め絵(大ゴマ)だけを並べるので、コマ間の動きは読者が想像しなければならない。
直接的な動きは表現しない。

日本の漫画は一枚絵の中には動きを表現する。
スピード線を用いたり、人物/足/手を複数(ブラして)描くことにより動きを表現する。
その上でアニメのように大ゴマと大ゴマの動きも細かく描くから、アメコミと動きの表現は桁違いに多い。
逆に言えば、一般的に日本の漫画は一枚絵としての魅力はアメコミより低い。

この書籍はアメコミ表現を取り入れたい人には良書だろう。
静止した一枚絵や動きの前兆など(特定のシーン)の考え方は、あまり日本人にはない論理展開をする。
絵コンテ、挿絵、イラスト向けかもしれない。

【本】トルーマン・カポーティ『遠い声 遠い部屋』

ところどころ文意が混濁して(少年の内面を表している)わからなくなるが総意は理解できたと思う。
初期短篇集と同じく僕は『冷血』より断然こちらの作風のほうが好き。

父の自分への無関心と自分の執着、田舎に対する郷愁と恐怖……ノンフィクション小説である『冷血』にまで登場するモチーフが見え隠れする。
カポーティ氏は澱のようにこびりついた過去の自分を振り払うことができなかった。
見えない部分でずっとそれは残っていたのだ。
『冷血』でそのモチーフが殺人犯の人格として顕在化し、その凶暴さに飲み込まれていったように見える。

主人公がヒロインのアイダベルと幸せになる展開はなかったのだろうか。
彼女が送ってきた葉書を読み返すたび、僕の自分の奥底の少年とつながっている部分が鷲掴まれるように痛む。
ここでアイダベルに興味を失う主人公の姿がカポーティ氏自身と重なってならない。
(アイダベルには実在のモデルがいたという)
きっとアイダベルとそのまま添い遂げていたなら、カポーティ氏はこの小説を書いていないだろうし、そもそも田舎を出て都会で小説家になることはなかっただろう。
都会を夢見ながらも、少年の延長線(イノセンスを残したまま)に田舎で暮らしていただろう。

これは、彼女を失うことによって得た物語だ。

【本】佐藤優『読書の技法』

「功利主義者なので、無駄な読書はしない」という佐藤氏の言いようにのけぞる。
全て何かを得るためだけに本を読むって逆に難しすぎる。

この世界は何か目的があってデザインされたわけでないので、どんな行動をしても生きていく限り何処かしこに無駄が生じる。
睡眠時間も無駄だし、食事も無駄だし、服を着ることだって無駄……しかし人間は無駄そのものに楽しみを見出すことができる。
だから、佐藤氏の言う「無駄な読書はしない」は、自分にとっていま無駄に思えるものを読んでも結果的には役に立つこともあるので無駄な読書などない……そんな遠回りな言い回しかと僕は思った。

だが読み進めていくうちに、佐藤氏が目的以外の読書は結構真剣に無駄だと考えていることに気づく。
(その禁欲的な姿勢が修行僧を連想させ、佐藤氏がプロテスタント神学を学んでいたことの関連性を考える)
そういう無駄をしないための『読書の技法』なら、僕は根本的に佐藤氏と考えが噛み合わない。
僕が今まで携わってきた漫画は娯楽(無駄なこと)が目的で、直接的に人に役に立つことではない。
逆に言えば、完全に役に立たないことばかり作ることも難しい。

ということで功利的な目的半分、娯楽半分ほどほどなバランスでこの本を読む。
佐藤氏の勉強法など腑に落ちるところもあったので、この本から学ぶことにする。

【本】SSIブレインストラジーセンター (編集)『図解・マインドマップノート術』

この書籍で紹介された一〇年前(二〇〇五年)の勝間和代氏がちょっとアダルトな魅力なメガネ女子だった!
(鼻の穴横広がり女子なことは今と変わらず)

最近、発想法、メモ術の一つとしてマインドマップを使っているが(この文章もマインドマップでまとめた)、この書籍はその手のマインドマップ入門書の中では一番わかりやすい。

いろんな人が描いたマインドマップが載せているので、
どういうことを守ればいいか、
あるいはルールを厳守しなくてもマインドマップ的な思考をすればいい、
そんなことがわかった。

マインドマップはある方向に思考を展開していくことには優れているが、
文章を作ったり、ナナメの発想をジョイントすることには優れていない。
あくまで発想のきっかけ、補助ツールの一つ。
マインドマンプは万能でない。
マインドマップに縛られない考えかたもするということ前提でマインドマップを使わなければならない。
そもそもマインドマップは描いた本人以外には、どういう論理で展開していったのかつながりがわかりにくい。

この本はマインドマップを学ぶには良書。
(逆に言えばこの本の評価は、読んだ人がマインドマップをどの程度使いこなせるかで決まりそうだ。)

【本】ラディゲ『ドルジェル伯の舞踏会』

僕には、一九二〇年代と言う時代か、フランスという場所か、ラディゲ氏という作家の個性か……そのどれが理由かわからないが、どこまでが意図的なのかわからなかった。
物語が心の動き中心に描かれてはいるが、リアリティを感じることができず観念的に思える。

そのあと、ラディゲ氏によって先行して書かれた『肉体の悪魔』を読んで少し理解が進む。
『肉体の悪魔』がA面ならこれはB面の関係。
あちらはリアルタイムの心情の変化を描いていて(ルポルタージュや実況中継のように)、こちらはチェスのようにコントロールされた状況下での心情の変化を描いているのだ。

【本】ラディゲ『肉体の悪魔』

その場の空気を冷凍保存してそのままリアルタイム解凍しているかのような、すさまじい心理的臨場感。
尋常な気持ちで読んでいられない。
自分の心に関してここまで熟知しているということはずばらしいが、恥ずかしげもなくそれを描写するラディゲ氏はある種のサイコパスかもしれないとまでも思う。
僕は……正視できない(だからクリエーターとしてダメなんだ!)

【本】根本敬『果因果因果因』

学生の頃いちばん好きだった作家、根本敬氏のフィクション短篇集。
自分が好きだったテイストがフィクションの中にも残っている。
善でも悪でもない世界の底に沈殿した澱の中の混沌とした世界に自分は憧れた。
そして学生時代は傍観者だった自分が時を経て澱の中に埋もれ、いつの間にかリアル世界で根本氏の描くあちら側に片足を突っ込んでいることに気づく。
おそらく根本氏の世界がこちら側に侵食しているのだ。