地球人が来て、また地球人が去って行くまでの火星の歴史。
久しぶり(五回目)の再読。
今回は意外と破綻しているという印象……中二に読んだときが面白かったピーク。
妄執にとりつかれた登場人物が、目の前はびこる過去のことを大切にしない、価値観と戦う。
スタージョン、ジャック・フィニイ、ロバート・F・ヤングと同じく、読んでいて強いノスタルジィを喚起させる。
冒頭の何編かの地球人と火星人のファーストコンタクトに纏わる話、それぞれ火星人の立ち位置が違いすぎて、別の設定の話みたいだ。
これを同じ火星人と捉えるなら、
違う種族?
個体差が大きいから?
火星人が行っている行為も意図的なのか意図しないものなのか判別し難いので、一層混乱させられる。
「第二のアッシャー邸」
にも同じことが言える。
これは火星で起こった出来事にする意味があまりわからない。
(中二で読んだときにも思った)
ハザウェイのエピソード、妻子を人造人間にする意味がわからない。
連続性のあるエピソードにするなら変身した火星人のほうがいいのでは?
ただの医者なのに人造人間を作る技術を持っているって唐突過ぎる話だし。
それぞれの短編の完成度は極めて高いのだが、微妙に違う世界観を持っているのでおさまりが悪いと思った次第。
ちなみに二〇一〇年頃、ブラッドベリのインタビュー
「本は紙で読むものだ。電子書籍にしてくれと言ってきた奴がいたので『地獄に落ちろ』と言ってやった(意訳)」
http://www.afpbb.com/articles/-/2748823?pid=6086074
電子書籍が駄目だけど紙に印刷した本は読んでいるし、
映画を観ているし、
テレビも観ているわけだし。
その線引は自分の過ごした時代に縛られているだけのことじゃないか!
古き良き時代の文化を大切にするにしても、それはあくまでも本人の主観で、それこそその基準は時代ととともにかわるもの。
微妙な気持ちになった。
そして少し前にブラッドベリが死んで、今はAmazonの電子書籍で『火星年代記』を読むことができる。
みんな地獄へ落ちちゃうよ!