【本】スタニスワフ・レム『泰平ヨンの回想記』

ここ数日、あと一〇〇ページを切っているところでページをめくる手がにぶっている。
決してつまらなくはなくむしろ知的好奇心をくすぐる内容で、こんなことよく考えるな〜とは感心はするのだが、肝心の文章や物語の波長が僕に合わないようだ。
中断を繰り返しながら最後は飛ばし読み、鼻をつまみノドの奥に流し込むように読了。

同じ短篇集の『泰平ヨンの航星日記』http://matsudanozomu.com/?p=15630に比べ思考を追うものが多くなっていて、物語がない(ほぼエピソードだけの)ものまである。
しかし抽象度が高いからつまらなくなったということはなく、『泰平ヨンの航星日記』と面白さの打率は変わらない。
ページ数が半分くらいな分だけボリューム不足感はあるが。

あと、地球が舞台という違いがあるが、『泰平ヨンの航星日記』にも地球が舞台の物語があるし、この短篇集にはさほど地球の固有名詞も出てこないし地方色もない。
そこは大きな違いはない。

泰平ヨンが科学者に会いに行き/科学者が会いに来て、ビックリする事実を知り、その事実を引きずりつつ日常に戻る……このパターンが多い。
思考の飛躍(センス・オブ・ワンダー)を物語化するため科学者が必要なのだろうか?
いま読んでみるとそんな疑問がわいてくる。

メカや宇宙人などわかりやすいSF的ガジェットが必要だった時代なのだろうか?
あるいは東欧諸国ならではのSF小説のルール?
今なら日常と非日常をジョイントするために、こんなあからさまなSF的ガジェット使わない。
でも当時だってニュー・ウェーブ (SF) の動きがあったわけで……
研究者だったレム氏が、思考を一番手っ取り早く物語化できる手段が科学者を使うことだったのだろうか。