こんな映画を観た!」カテゴリーアーカイブ

映画の見方がわからない人が感想を書いています。ばんばんネタバレしていきますよ〜!
フェイバリット映画は『遊星からの物体X』。
時々アニメやドラマやドキュメンタリーの感想も入ります。
(特に記載がない場合はDVDでの鑑賞です)
 
このカテゴリーの目次はこちら→こんな映画を観た!

【映画】『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』

牢獄アズカバンから脱出した囚人にまつわる騒動、そしてハリーは両親の死の真実を知る……という話。

冒頭、牢獄アズカバンから脱出した囚人を追いかけてきた吸魂鬼が、ハリーの乗った列車に舞い降り、何も関係のないハリーの魂を吸おうとするところから、わけがわからない。
国の行政機関がそんな無関係な人を襲おうとさせる奴を世に放つなよ!

ハリーは相変わらず主体的に動かず、事件に巻き込まれているだけ。

クライマックス、たまたまそのときハーマイオニーが持っていた逆転時計を用いて時間を巻き戻し、事件を収拾するのだが……
そんな物語の根幹に関わるようなものをたいした伏線もなく持っているってどういう物語作法?
そもそも時間をコントロールする道具がこの世にあるなら今までもっと使ってもよいタイミングがあったのでは、という疑問がわいてくる。
(例えばハリーの両親の死を防ぐことができた)
……しかも今作ではむちゃくちゃ頭の悪い使い方をするのだ。
僕ならもっと上手く使うことができるんやけどな〜。

【映画】『ハリー・ポッターと秘密の部屋』

上映時間が三時間近く。
内容に対してあまりに長過ぎ!

学校の主要な先生たちはハリーをえこひいき過ぎしすぎる。
この物語の世界観は、いい人がハリーの味方になって助け、悪い人がハリーをいじめる単純な善悪二元論。
自分の利害に敵対する人だっていい人がいるし、自分の味方だが悪人もいる。
自分が正義なんて、世界はそんな単純でない。
『ドラえもん』ですら状況が変わることによって登場人物はいい人にも悪い人にも変わるというのに……

ハリーは受動的にしか行動しない。
自分から率先して物ごとを解決しようとせず、観ていてイライラする。

事件解決後、校長先生が唐突に言い出す
「お祝いとして期末試験は取りやめとする!」
その言葉にひっくり返る。
勉強ぐらいちゃんとさせなさい!

【映画】『燃えよドラゴン』

少林寺の高弟リーは、兄弟子であるハン主催の武術トーナメントに国際情報局の要請で参加することになる。
しかし準備のため帰郷したとき、リーは父親からハンの手下に妹が自害させられたことを告げられる……という話。

初めてちゃんと観たブルース・リー映画。

確かにブルース・リーの格闘シーンは格好いい。
スピードが速くて技の切れもある。
しかし、あの変な髪形は格好いいと到底思えない。
ルックスが読み切りの頃の『北斗の拳』ケンシロウそっくりなのだ。
ラオウと戦っている頃のケンシロウならまだ理解もできるのだが、何故に読みきり時代!

しかも普段の声は低いのに、戦うときだけ素っ頓狂に高い声を出す。
怪鳥かと思った。

【映画】『ハリー・ポッターと賢者の石』

親戚の家で惨めな生活を送っていた少年ハリーは一一歳の誕生日、両親が通っていた ホグワーツ魔法魔術学校に入学することを許される。
やがて彼は魔術学校のどこかに隠された賢者の石探しを通じ、自分の両親を殺した「あの人」と自分の因縁を知ることになる……という話。

一二年前からの再鑑賞。
感想はそのときとあまり変わらない。

育て親の家族のあまりに悪意のある描き方に辟易する。
ハリーの部屋(階段下)の上の階段で、わざと飛び跳ねるってそんなあからさまなこと普通するか?
魔術学校から手紙が届いたら育て親があそこまで妨害するのもよくわからない。
育てたくない子供だったら逆に行かせたらいいじゃないか。

先生たちがハリーだけをえこひいき過ぎる。
変な球技でハリーが不利になると先生方はあきらかに悲しそうな顔になり、ハリーが活躍すると嬉しそうな顔になる。

特にラスト、校長の寮ごとの得点、あんなんハリーを勝たせるための後出しジャンケンやんけ!

そしてハリーに嫌われた生徒はろくな目に合わない因果応報。

ハリー中心に作られた妄想の世界みたいだ。
僕の予想するシリーズのラストは
「という夢をハリーは見たのでした」
というナレーションが入って、階段下の部屋で目覚めたハリー、そして布団にはほうきで空を飛ぶ自身がおねしょで描かれたしみが大写しになって終わり。
チャンチャン!

【映画】『ビフォア・ミッドナイト』

ビフォア・サンセット』の続編。
パリでの再会からさらに九年、ギリシアの避暑地で二人は真夜中まで語り合うのだった……という話。

僕と同世代の二人がこの歳になると子供がいてこういうことになるんだな〜と自分の悪い意味での浮世離れさを思う。

ロマンチックな出会いから現実へ。
昔話でいう……それから二人は結婚して長くと幸せな時間を過ごしたのでした……の「それから」を描いたもの。

観ていて、マイケル・ベイ監督『トランスフォーマー』シリーズと同じくらい疲労する。

『トランスフォーマー』シリーズは短いカットを大量に挟むことによって起こる情報過多なのだが、『ビフォア・サンセット』のほうはその対極で長いカットが続く。
そして途切れることのない会話は、『トランスフォーマー』の途切れることのない爆破シーンと同等かそれ以上に疲れさせる。

『ビフォア・サンセット』つまり恋愛というものは、『トランスフォーマー』という地球規模の戦いに匹敵するぐらいだいうことだ。

この映画の中で、漫画『HUNTERXHUNTER』を彷彿とさせるような頭脳バトルが延々続く。
こんなのをクリアしなければ長続きできないって、恋愛って面倒くさ過ぎる。

猿から人類に進化して人類は本能が壊れ、子作りするための性行為だけでは済まなくなって、こんな会話を延々続けないと愛を確認できないのだ。
木から降りて地面に立った僕らの祖先はこんなことを望んでいたのだろうか?

【映画】『ビフォア・サンセット』

『ビフォア・サンライズ』の続編。
ウィーンの出会いから九年、男は作家として活躍、あの夜のことを書いた物語のサイン会でパリを訪れている。
そこで二人は再会、日没までの束の間のときをパリで過ごすことになるのだった……という話。

アドリブなのか脚本通り演技しているのか、その境界線上がはっきりしない。
時間経過と同じぶん、役者も本当に変化していることと相まって、フィクションであるこの映画が現実であるかのように錯覚させる。

恋ってのは難しい化学反応だ。
しかし面倒くさいからこそ、過程に楽しみを見出すわけで、登山のようなものなのかもしれない。

一番の盛り上がりが、女が部屋でギターを手にうたうところってちょっとクール。

イーサン・ホークは前作に比べあきらかに年を重ねた感があるのに、思慮深い雰囲気になっていないことに驚く。
ネズミ顔というか……貧相な印象。

【映画】『ダラス・バイヤーズクラブ』

ロデオ・カウボーイ(典型的なアメリカ男)の主人公が、エイズに感染してはじめて自分の偏見に気づき、差別と向き合い、他人のために頑張ろうとする話。

『エイズ版シンドラーのリスト』あるいは『エイズ版ソハの地下水道』といったところ。

最初は自分自身が必要にかられて薬の売買をしていたのだが、次第にそういうレベルでなくなり、他人のために身を削ること自体が目的になって、主人公は「ダラス・バイヤーズクラブ」を設立、のめり込んでいく。

決定的に主人公の意識を変える出来事があるわけではないが、三歩歩いて二歩下がるようなスピードで彼は前進していく。

正直、最初は主人公を含め周囲の感染者の自業自得感が強い。
仲間と注射針をシェアしたり(ドラッグまみれ)、不特定多数の相手と性行為したり、エイズ宣告されても構わず女を引っ張りこんで乱交……

しかし聖人とは到底いえないような、普通に考えたら同情できない類の人間だからこそ、そこからの行動にリアルさがあるのかもしれない。

【映画】『マチェーテ・キルズ 』

ダニー・トレホ演じる「マチェーテ」が国際的陰謀に巻き込まれながら戦う……という体の架空のB級アクション映画の続編。

オープニングは宇宙を舞台にした次回作の予告編から始まる、といった凝りよう。
設定だけでいくつもの入れ子構造になっている。

リアリティラインの低さと徹底的なまでのベタなネタ。
乳首からマシンガン……の後のくだりは思わす笑ってしまう。
しかしチャチさを笑うという感じでなく、あくまでこんなお金をかけてバカなことをやってますよ、というイメージ。

しかし前作に比べあきらかに情報過多。
展開が速い上に二転三転、キャラが多い。
何がやりたいのか途中でよくわからなくなってくる。
それも含めてB級ということならそれはそれで成功しているのかもしれないが、はたしてそれは当初から意図したものだったのだろうか。
撮影から完成にいたる間のどこかで、やむなくそちらに寄せていったような匂いがする。

【映画】『ミスティック・リバー』

三人の少年は幼なじみ、ある日目の前で見知らぬ大人に一人が誘拐されてしまうが、その場に残る二人は助けることができず見ているだけだった。
幸い、誘拐された少年は逃げ出すことに成功したが、それ以来三人は疎遠になる。
それから数十年、彼らの街である殺人事件が起こり、三人はふたたび運命の渦に巻き込まれていく……という話。

クリント・イーストウッド氏の映画は、僕みたいな映画の素人には優しくない。

人間関係の相関図をメモしながら観ている。
おそらく手元に何もなかったら、僕は内容を理解することが困難だったろう。

一時間経っても物語の核心に至らず、イライラする。

ショーン・ペン主演の映画で、名前がショーンというケビン・ベーコン演じる刑事が出てくることも混乱する原因のひとつ。
ショーン・ペンの役名をショーンにすべき!
それができないなら、この映画を観た観客が混乱しないようショーン・ペン自身が改名するというのも手だと思う。

二時間でやっと物語の核心に至る。

結論としては考えさせられる作品で大変面白かったのだけれども、欲を言うなら、もう少し映画の素人にもわかりやすく作っていただけたらありがたかった。

【映画】『わらの犬』

内向的な数学者が閉鎖的な村で度重なるストレスを受けて最後に大爆発する話。

先日、本作のリメイクを間違えて観てしまったが、そちらの方は現代のハリウッド映画特有のわかりやすさが悪い意味で前面に出ていて、コミカルでない『ホーム・アローン』みたいなピタゴラスイッチ映画だった。

本作はリメイクに比べ、伏線がさり気なくて段取りっぽくないのがいい。

女は、本質的に暴力的な男を求めている。
女は、心の優しさと勇気が裏表の関係になることが理解できない。
女は、原則論がない。
女は、乳首をピンと立たせてセーターで街を闊歩する。
……等々、女が潜在意識下で何を望んでいるか男視点から描かれている。

女に比べ、男は原則論がはっきりしている。
ある一線を越えることを絶対に許さないのだ。
「ここは僕の家だ。僕自身だ。だから暴力は許さない」

いつか僕もこんな風に爆発しそうだ。

【映画】『ジャイアンツ』

保守的な風土テキサスへ嫁いだ女性が理想を失わず家族とともに成長していく話。

登場人物がみな多面性を持っていて、ひとつの言葉で表現できない。

レズリー(エリザベス・テイラー)は保守的な土地柄でも自分の理想を守ろうとして、夫のジョーダンと対立する。
夫のジョーダン(ロック・ハドソン)はその土地柄を象徴する保守的、権威主義的、差別主義的。

理想主義と保守主義、二人を結びつけるものは愛の一点のみ。

ジェット(ジェームズ・ディーン)は、学はないが新しい価値観を持っていて、保守的で世間体を気にするティラーの夫より多様性があるように描かれている。

途中、価値観の違う夫とすれ違いになり、エリザベス・テイラーとジェームズ・ディーンが結ばれるのかと思ったら違う方向に。

ジェームズ・ディーンは成金となり理想を見失っていく。
「メキシコ女を妻にした具合はどうだ」
とティラーの息子を侮辱する。

変化するものと変化しないものがこの映画では重要なのだろう。

人間は立ち止まっているように見えても足元を流れる泥土(時間)に引きずられていくように、少しずつ流されて(変化して)いく。
三歩進んで二歩下がるように揺り返しを繰り返しながら。

変化することが必然の世界において「時代に抗う」ことが「変化しないこと」で、守るものを守りきった男は他の一様に変化している人達と比べると、実は相対的に「別の方向へ変化している」のかもしれない。

静電気は「運命の出会い」の表現。

【映画】『LUCY/ルーシー』:ユナイテッド・シネマとしまえんで鑑賞

運び屋にされてしまった女性が事故に遭い、ドラッグを体内に吸収することで脳の未使用部分を解放、途方もない力を得る……という話。

脳の使用領域が広がっていくに連れスカーレット・ヨハンソン演じる女性がすごい超能力を発揮するようになる理屈がわからない。

イルカが人の倍(人は普段一〇パーセント)二〇パーセント脳を使うことによって得た能力は、音波を感じる高性能な体内ソナーを使うことができるぐらいのこと。
それなのに人が脳の力を一〇〇パーセント発揮することで、場所や時空を超えて神のような力を得ることができるって論理の飛躍にもほどがある。

そもそもスカーレット・ヨハンソンが覚醒した後も言動に知性が感じられない。
行き当たりばったりの行動で計画性がなく、強引に超能力で実行しているだけ。

スペースオペラ『キャプテン・フューチャー』における主人公である天才の表現がすごい道具を発明するぐらいのことだったが、この映画の超知性の表現も同じレベル、超能力とすごいスピードの情報処理だけで思考レベルは一般人と変わらない。

製作者か考える以上のことは表現できないのはそうだけれども、観客はそれを上回る何かを期待するから映画を観に行くわけで、もう少しこころざし高く頭を使って考えてくれよ、と思う。

スカーレット・ヨハンソンのそこはかとなく漂う「はすっぱ感」は好き。

【映画】『羊たちの沈黙』

FBI訓練生が猟奇殺人犯で元精神科医との交流の中で連続殺人事件の真相に迫る話。

サスペンス版『スターウォーズ』といったような趣。

レクター博士に対して誠意で接することで見返りを得ることができる。
逆に利用しようとするとこっぴどい目に遭う。
平素の訓練とレクター博士の霊的指導により、主人公のクラリスは成長していく。

クライマックス、デス・スター最深部に侵入するがごとく、クラシスは殺人犯の自宅地下に潜入する。
危機に陥るが、それまでの経験を活かすことによってクラリスは無事、生還する。

ラスト、オビ=ワン・ケノービが肉体は消えた状態にあっても霊的な指導を続けるように、クラリスに電話で声をかけるレクター教授。

『スターウォーズ』的な展開をなぞるならきっと次回作では、主要登場人物の誰かが腕を切り落とされるのだろう……と予想してみる。

【映画】『セブン・イヤーズ・イン・チベット』

オーストラリア人の探検家が第二次大戦のどさくさで七年間チベットで過ごすことになったという話。

こういうアジア人がいたらいいなあ、というアメリカ人の理想を押し付けられたような印象。

主人公であるオーストリア人/ドイツ人が英語で会話することは、(よくないけど)まあいいとして。
文明が届いていないところ、チベットの奥地の人はわけのわからない言葉を喋っていて、文明化している人は英語で喋るって、そんな演出をする神経を疑う。
ダライ・ラマが幼少から英才教育受けていたにしろ、主人公と出会った時点で流暢な英語で語りかけてくるのは不自然過ぎる。

『G.I.ジョー』で、東京と思しきスラム街で日本語で話そうとする少年に「失礼だ、ちゃんとした言葉で話しなさい」と老師が英語で話すよう促してきたり、
『ラスト・サムライ』の御前会議で閣僚がろくに英語を話せない中、明治天皇が英語で話しかけてきたり……霊的に高いレベルにいる人は、当然のように英語を喋ることができるとアメリカ人は思っている、ように見えてしまう。

それでもこの映画の最初のほうは、留学経験者や大臣レベルしかチベット界隈で英語を話せる人がいなかったのに、途中ぐらいから猫も杓子も英語を話し始める。
中国人とチベット人の交渉も英語。
そのへんに歩いている老婆も英語。
工事現場のおっちゃんまで「ミミズがいるから工事ができない!」って英語で訴えはじめる。
じゃあ最初の方の言葉の伝わらなさは何だったんだ。

わかりやすすぎる反共プロパガンダも疑問。
大事な話し合いに訪れた中国の軍人は
「何日もかけて砂で曼荼羅を作りました」
とチベット側から説明されたらわざと軍靴で踏みにじりながらその上を歩いていく。
こんなわざとらしいぐらいの悪いことを本当にしたのだろうか?

その後、幼いダライ・ラマが真摯に話し合いに応じたにも関わらず、軍人は「宗教は毒だ」とだけ吐き捨てて去っていく。
これは一九五三年に北京で毛沢東がダライ・ラマに会ったとき
「宗教は毒だ」
と語ったという有名なエピソードから引用したものだが……ということは、やはり映画のこのエピソードそのものは事実から大きく脚色されて作られていることの証左じゃないか。

こういうシーンを映画で描写するなら、高い精度で真実を反映しないと、その一点から説得力が崩れていく。
中国が悪逆の限り尽くしている描写を観ても、この映画の中ではそういうプロパガンダに見えて今ひとつ信頼できない。

中国共産党が素晴らしいわけではないが、日本も同じことを中国で行ったわけで、そして欧米も世界中で大なり小なり、侵略と文化破壊を行ってきたわけで、世界中の国々がそういう連鎖の中にある。
日本の中だけに限定しても明治維新のときに改革の中、たくさん過去からつながるものを破壊した。

少なくともその瞬間は悪意だけで破壊するわけでなく、程度の差こそあれ基本的にはよかれと思っているわけで、相対化するような描き方をせず、一方的に善悪の対立を描くやりかたはいただけない。

そんなイデオロギー的なことはともかくとして、
偏屈で自分勝手な主人公が、チベット人の触れ合いを通して変化していく成長譚としては素晴らしい出来。
むしろそれだけならよかったのに。

【映画】『サスペリア』

伝統あるバレエの寄宿学校で起こる不気味な出来事の裏には……という話。

冒頭、飛行機の到着口から現れる主人公、内側から照らす赤い照明。
意味ありげにカットを変え何度もなめるように映される空港の自動ドアはギロチンのよう。
豪雨。
言葉が通じないタクシーの運転手。
全てが普通にあることなのに、ずっとスリリングな音楽がかかり、恐ろしく演出されている。
冒頭からテンションが高い。

異世界観を演出しているためか室内は広角で撮影されており、登場人物を追ってカメラが横に移動すると画面の端がぐんにゃりと歪む。
登場人物が窓の外を見るだけで「チャララーン!」とかん高い電子音。

……演出のやかましさに僕はうんざりしてくる。

音楽の雰囲気は『エクソシスト』のテーマ曲、マイク・オールドフィールド『チューブラー・ベルズ(パート1)』と似ている。
この映画『サスペリア』もオールドフィールド氏と同じプログレッシブ・ロックつながりのバンド、ゴブリン。
今となっては古めかしく感じるが、公開当時はこういう電子音楽が最先端だったのだろうか。

さらに盲目のピアノ演奏者が死んだ後、どんなシーンにもうっすらとピアノ音がかぶさる演出。
テレビの音量を変えても一定の音量で何処かから聞こえてくる。
怖い。
どんな巧みな演出だ……と感心していると、しばらくして近所で誰かが練習しているピアノ音だったことがわかる。

ラスト、主人公がとうとう敵ボスと対峙することになるが、その姿は透明で見えない。
姿が見えない敵は倒せない……主人公が恐怖に悲鳴を上げる。
敵ボスは高笑いをする。
窓の外で雷が光る。
そのたびに雷光に照らされ敵ボスの輪郭線もビカビカと光る。

「見えてるやん!」

案の定、敵ボスの居場所は主人公にばれ、あっさり倒されてしまうのだった。
なんなんだ。

【映画】『ザ・ミッション 非情の掟』

マフィアのボスを守るため集められた五人のボディーガードたちのプロ魂と友情の物語。

銃を撃つとき予備動作なしに平然と撃つくせ、隣の男の銃声には両手を上げて「コワイコワイ」とおどけるような感じ、実際に黒社会の空気がこうなのかはわからないけれど、イメージとしてのリアル感は伝わってくる。

心の動きの変化をセリフを使わずにジェスチャーだけであらわす部分が多く、それがまたカッコイイ!

トー監督のいつものギミックあり銃撃戦、今回の舞台はショッピングモールの構造を利用した敵味方乱れるアクション。

予想斜め上を行く展開、最後まで飽きずに観ることが出来た。
大満足。