六時起床。
九時過ぎに業務用スーパーへ買い物。
それ以降は雨が降っているのでずっと仕事部屋にこもっている。
納得する絵を描くことができず原稿を何度も描き直している。
夜、外でひっきりなしに喘ぎ声が聞こえると思ったら、発情した野良猫だった。
二二時半就寝。
◇
こんな映画を観た! 14年11月20日
【映画】『ミス・ブロディの青春』:DVDで鑑賞。
六時起床。
九時過ぎに業務用スーパーへ買い物。
それ以降は雨が降っているのでずっと仕事部屋にこもっている。
納得する絵を描くことができず原稿を何度も描き直している。
夜、外でひっきりなしに喘ぎ声が聞こえると思ったら、発情した野良猫だった。
二二時半就寝。
◇
こんな映画を観た! 14年11月20日
【映画】『ミス・ブロディの青春』:DVDで鑑賞。
生徒によきこととしてファシズム教育するブロディ先生。
ファシズムに歴史的評価がされていない一九三〇年代が舞台なので、周囲もその危険性に気づかない。
そもそも僕らがファシズムが危険性を知っているのは歴史を知っているからで、これは後出しジャンケンのようなもの。
ミス・ブロディの考え方がおかしいと思うことができるのは結果論、同時代なら気づくことは困難だ。
映画を観ているときは映画を支配する価値観によってコントロールされてしまう。
ブロディ先生のバランスが明らかに崩れているということがわかるのは、彼女がよきこととしてファシズムを主張しだしてからで(一方的な情熱の象徴としてファシズム)、鑑賞している最中は、肯定的、否定的、どちらで観ればいいの判断しがたかった。
クライマックス、生徒のサンディとブロディ先生の対決で問題点が言語化されてはじめて映画の意図が理解できた。
こんな読解力では、この現実で新たな危険思想が生まれても疑問を抱く前に僕は毒されてしまうことだろう。
五時起床。
早朝、市場で買い物。
クイズ原稿、午前中に仕上げるつもりが時間配分を間違え昼食をまたいでしまい、午後に脱稿。
一五時三九分より公園を三四分ジョギング。
夕日を背に走る。
落葉樹が散り始め、一年も終わりに近づいていることがわかる。
焦りに背中を押され、走るスピードが少し上がる。
Pink Floydのアルバム「The Final Cut」を聴きながら走る。
……印象に残らない。
二二時半就寝。
◇
こんな映画を観た! 14年11月21日
【映画】『パーフェクト・ワールド』:DVDで鑑賞。
学生時代以来二〇年ぶりに鑑賞。
今までクリント・イーストウッド監督の映画にあまりはまらなかったのだが、初めてオモシロイと思った。
ただ……
脱獄囚ブッチ(ケビン・コスナー演じる)が母親に対して子供のしたいことをさせるよう要求を出すのだが、
「子供をハロウィンに参加させろ」
と言うのがよくわからない。
子供の気持ちはわかるけど、ハロウィンに参加させないのは親子がエホバの証人の信者であるからで、そう簡単なものではない。
ヒンズー教徒に
「牛ぐらい食べさせろ」
と言うようなものではないのか。
そもそもハロウィンじたい宗教だ。
アメリカは宗教に敏感なことはもちろんなので、あえてこういう描写を入れたイーストウッド監督の演出意図はどうだったのだろうか。
四時半起床。
せっかく早起きしても脳みそにエンジンがかかるまでに時間がかかってしまう。
結局何もできないまま一日が終わる悪循環だ。
11時半外出、公園前図書館に寄ってから新宿へ向かう。
新宿エルタワー二八階のニコンサロンにて、新進気鋭の写真家かつ現代美術作家の辰巳唯人http://www.tatsumitadahito.comさんの個展へ。
同じ構図で似た内装のトンネルの写真が並べられている。
観ていて違和感を感じるが、その正体がわからずただ首をひねるばかり。
作者のギャラリートークを拝聴して、初めて意図がわかる。
トンネルの中と外は、夜明け/夕暮れの数分だけ外側と内側の明るさが等しくなる。
その一瞬を狙って撮影すると加工せずにトンネルの内側から外の風景をクリアに撮影できるとのこと。
僕が感じた奇妙な感覚の正体は、ルネ・マグリット「光の帝国」のだまし絵的な違和感だったのか!
コンセプトにも感心するが、写真を並べて展示しているその背景に横たわる……撮影する手間や期間、あるいは展示方法、インスタレーションなど、何重もクリアしているハードルに感心。
いい、悪いは別として自分はそこまで考えて絵を描いていない。
ギャラリーを出たのが一五時過ぎ、新大塚の図書館に寄って帰宅するともう一六時。
日々の雑多な些事を片づけ二三時半就寝。
◇
こんな映画を観た! 14年11月22日
【映画】『インドへの道』:DVDで鑑賞。
こんな本を読んだ! 14年11月22日
【本】『パスポート・ブルー(全12)』石渡治
宇宙飛行士になるためエリート進学校に入学した主人公が、詰め込み教育に疑問を感じて友達の通う普通の中学校の授業を受けて衝撃を受ける。
「“これ”がフツーの……中学校なのか!?」
授業中なのに先生を無視して話を続ける生徒、雑誌を読んでいる生徒、麻雀をする生徒。
……ゆとり教育ってそこまでひどいのか。
そういう普通の学校からがんばって宇宙飛行士になる、という展開なら納得行くけれども、「その環境に流されてダメ人間になるのがオチ」とはすごい書き方だ。
宇宙飛行士ものというしばりの中で石渡氏が苦しんで描いているさまが見受けられる。
その中でもいくつかのエピソードは宇宙飛行士漫画として成功していると思う。
しかしおそらく石渡氏が得意であろう展開と宇宙飛行士漫画と相性が悪いのか、漫画的に面白くなるほど宇宙飛行士と関係ない話になる。
せっかく舞台が宇宙に広がってもそこで活躍する人物は主人公の知り合いばかりで、広いのか狭いのかよくわからなくてウニャ〜となってしまう。
八時半起床。
午前、業務用スーパーで買い物。
今日も仕事に集中できない。
何かを根本的に変えないとダメだ。
夕方、自転車にて外出、三鷹のクロッキー会へ。
相変わらず上達しない。
……もっと真面目に絵を描き続けていればよかった。
懇親会に参加して、また自分が馬鹿なことを言ったと後悔しながら帰宅。
後悔ばっかりの毎日だ。
午前〇時過ぎ就寝。
◇
唐突に登場する中国製宇宙船のエピソードが後半、物語に全く絡んでこない。
新しく象徴的な物語を描くことが得意であっても、クラーク氏は(アシモフ氏、ハインライン氏に比べると)ストーリーテラーではないことを実感。
個々のエピソードがあまり有機的に絡み合わない。
人を超越した存在になった(ディスカバリー号の)ボーマン船長が、まず元ガールフレンドのもとへ向かうところが俗っぽい。
高次元の存在は(ブッダやイエスが家族を捨てたがごとく)そういった感情を超越するから、肉を捨てたといえるのではないか。
ハルがレオーノフ号の乗組員を助けるために自らを犠牲にした後、ボーマンによって高次元の存在に変化させられる理屈がよくわからない。
スターゲートを通らずこういうことが出来るのなら『二〇〇一年宇宙の旅』後半のコンピューターと人間の攻防で、どちらが先に到着しても結果は一緒だったんじゃないのか?
中学生のころ鑑賞したときはちんぷんかんぷんだったのだけれども、今回、小説版で予習してから鑑賞したらずば抜けた傑作に思えた不思議。
全て説明しきっている小説版より、象徴的かつ哲学的。
サスペンスタッチの探査船内の攻防もスリリング。
キューブリック監督のモンタージュのテクニック(というよりもはや魔術)はすごい。
スターゲートを超えた後、主人公のポッドが部屋に現れ、急激に老い、最後の晩餐をしてから眠る、それを見つめるモノリス……視線誘導からミスリードを誘わせるようなカットをつないだ一連のモンタージュは、小説を読んだ後にこそ真価がわかる。
人間とコンピュータのサバイバル戦に勝利し、「超人への道」を通った人間が生まれ変わり赤ん坊(スターチャイルド)になって地球へ戻ってくる……R・シュトラウス「ツァラトゥストラかく語りき」が高らかになりだすエンドロール。
ピッタリはまりすぎて恐ろしいくらい。
今回の鑑賞で、これはSFというジャンルで最高レベルの作品でないか、という気がしてきた。
五時起床。
絶望的な気持ちになって部屋にこもり世界を呪っている。
夕方、近所の市場で精算した後、自分のカゴのはしにのせてあった卵パックが落ちて割れる。
店員に訴えたにも関わらず結局僕の負担になってしまい、グチャグチャの卵パックを店内のゴミ箱に泣き捨て帰宅。
二二時半就寝。
◇
こんな映画を観た! 14年11月24日
【映画】『2001年宇宙の旅』:DVDで鑑賞。
こんな本を読んだ! 14年11月24日
【本】『2010年宇宙の旅』アーサー・C・クラーク
ヘレン・ミレンの鼻をペロン・ペロンしたい!
まだ三〇代、チリチリパーマでピチピチしていてお色気ムンムン。
丁寧に小説『2010年宇宙の旅』をなぞっている。
映画版前作に比べるとはるかにわかりやすい。
非常にわかりやすい演出……怖いシーンには怖い音楽(当時流行りの電子音)が流れ、宇宙空間は最先端SFXで合成されている……製作した時代を考えると手堅く仕上げているけれども、この同時代性は劣化しやすい危険性もはらんでいる。
当時最先端だったからこそ使い古されてしまい、そのチャチさに観ていられない。
原作にない要素、米ソ対立を軸に物語を描いていることも劣化に輪をかけている。
映画公開時はぴったりはまっていたのに一〇年もせずソ連は崩壊、完全にその見せ方が時代遅れとなってしまった……
八時半起床。
五時の目覚ましで目覚めることができず、(昨夜は二二時半に眠ったので)合計一〇時間も眠ってしまった。
何も為すことができず時間だけが過ぎていき、今日もまた焦りが蓄積される。
二三時半就寝。
◇
こんな映画を観た! 14年11月25日
【映画】『2010年』:DVDで鑑賞。
五時に起床するが、布団から出て仕事部屋に入るも睡魔に負け、机にうつ伏し八時近くまで睡眠。
出鼻を挫かれ、もう今日は台無しになった気分。
自分の意志の弱さに絶望する。
就寝して布団に潜ってもなかなか眠れず、ずっと寝返りを打ち続けている。
仕方なしに布団に潜ったまま本を読んでいると目が冴えて余計眠ることができない。
午前〇時半就寝。
◇
こんな本を読んだ! 14年11月26日
【本】『2061年宇宙の旅』アーサー・C・クラーク
【本】『3001年終局への旅』アーサー・C・クラーク
主人公が、二〇六一年に再び近づいたハレー彗星へ向かおうとするところから物語が始まる。
出版された日付(一九八七年)から推測するに、前の一九八七年のハレー彗星ブームを当て込んだようだ。
前作『2010年宇宙の旅』の一〇〇〇〇年後の描写で、人類がエウロパに足を踏み入れることがなかったのであった……という書いてあるのに、この巻では普通に着陸している。
『2001年宇宙の旅』の小説版と映画版の違いは仕方ないとしても、『2010年宇宙の旅』以降新刊が出るたびにもとの設定が覆されていくことはどうも納得がいかない。
矛盾が生じないように続きを書くか、矛盾が生じるたび前作を書き直すかしてほしい。
連続した時間軸でなく分岐したパラレルワールドの未来世界のこととしか思えず、ここで起こっていることが無関係のことに思えてしまい納得しづらい。
クラーク氏は科学的な整合性にはこだわるけれど物語の整合性に関しては比較的どうでもいいようだ。
映画『2001年宇宙の旅』を通じてニューエイジ世代に大きな影響を与えた象徴であるモノリスが、巻を追うごとにその神秘性が薄まり(『2010年宇宙の旅』では高機能の道具「スイス・アーミーナイフみたいなもの」と表現され)、この巻ではとうとう人類によって斃されてしまう。
『2001年宇宙の旅』のテーマ曲「ツァラトゥストラかく語りき」が象徴する、ニーチェの言う「超人への道」が新しい段階に達した。
この巻を読んでから映画と小説の『2001年宇宙の旅』を振り返ると、深い含蓄があることに改めて気づかされる。
僕にとって『3001年終局への旅』は触媒のようなもの。
モノリスを作った魁(さきがけ)種族が、木星の生物を全滅させ、人類やエウロパ人の進化を促進させたり知性を与えたり、やりたい放題。
知能が高い(道具を使いこなす)ことがよきこととして、ある星系の生命の進化を促進させたり滅ぼしたりする傲慢さ、帝国主義時代の欧米キリスト教文化圏とアジア・アフリカの関係のようだ。
『2001年宇宙の旅』でスターゲートを通過して高次元の存在となったボーマンが「人間性を剥ぎ取られた」というような描写が繰り返し出てくるけれども、そもそもクラークの描くキャラクターは元から人間性に乏しく、正直その差がよくわからない。
途中でハル9000(HAL 9000)とボーマンを区別するのが面倒くさくなったみたいで、登場人物も作者も彼らをまとめてハルマンと呼び出したことに苦笑。
やはり目覚めることができず八時起床。
いったんリズムが崩れると何日も尾を引くことが僕の悪い癖だ。
今朝も朝から台無しされた感じが続いている。
一四時三〇分より公園を三五分ジョギング。
雲ひとつない青空、秋の陽の光に照らされ葉が暖色に変わりつつある樹々が光り輝いている。
いつものコースからはずれ、なだらかな丘の上を走り芝生のイチョウの下を通ると金色に反射する葉が神々しい雰囲気だ。
Pink Floydのアルバム「A Momentary Lapse Of Reason」を聴きながら走る。
八〇年代以降のPink Floydは耳に残らない。
仕事に集中できず、ずっと一日悶々としている。
布団に入ってもなかなか寝付けず二三時半就寝。
◇
こんな映画を観た! 14年11月27日
【映画】『マイレージ、マイライフ』:DVDで鑑賞。
解雇宣告のプロフェッショナルである主人公が、新システムの導入によって自らがリストラされるかもしれない立場となる。
環境の変化とささやかな事件の積み重ねで、確固とした信念を持ってきたはずの主人公が、孤独(自由)と連帯感(拘束)のはざまで揺れる。
孤独に耐えて生きる覚悟がある人間でさえも時には動揺する……かように人生は一筋縄でいかない。
それでいて家族愛を選んでハッピー・エンド、という単純な(王道で観客がその場限りで安心できる)結論に至らないところに制作者の一筋縄でいかない姿勢を感じる。
個人的には、あまりに自分とかけ離れたシチュエーションで感情移入しにくいキャラクターで進行するストーリーなので入りづらかった。
ロードムービー的な前半は面白いけれども、スミソニアンに着いて以降はあまりいただけない。
主人公がそれまで住んでいた場所では何をしても周囲に受け入れられることがなかったのに、いきなりトントン拍子に物事が進む。
あまりにもスムーズに展開するので、スピーチしている時点、あるいはテレビに出演している時点で
「……という夢を見てた!」
発明品スケッチの形のオネショしました……的な展開を思っていた。
マスコミでちやほやされている主人公を観て家族が驚く、という描写がないことが不思議。
「あなたは悪くないのよ」
主人公に向かって母親は言うのだが、そらそうだろとしか思えない。
どう考えても弟に銃を与えた父親が悪いのに、父親が責められることがないことも不思議。
弟が犬死に。
解説にも書いてあるがヴォクト氏は話が詰まると睡眠し、見た夢からヒントを得て書いたという。
これはシュルレアリスムの作家がよく使ったテクニックで、ちなみにシュルレアリスムはフロイトの精神分析の強い影響下で起こった芸術運動であり、現在では科学的立証が困難な精神分析を疑似科学とみなされることも多い。
さらにヴォクト氏はハウツー本で小説の書き方を学んだとか。
その方法は……
1:八〇〇語ごとに場面をかえる。
2:一場面は以下の五つのステップで構成する。
A:読者にそこがどこかをわからせる。
B:登場人物が何をしようとしているか、
その場面が何のためのものかはっきりさせる。
C:その何かを成し遂げようとする過程を描く。
D:それが達成されたかどうか明らかにする。
F:目的が達成されたにせよされないにせよ、事態は悪化する。
これも(ヴォクト氏だけが知っている)秘密のひとつなのだろう。
物語の冒頭は、確かにこの「小説の書き方」を使うことによって成功している。
しかし物語中盤から急激にボロが出はじめる。
後半あきらかに物語が破綻してしまう。
伏線をたくさんまき散らしているにも関わらずつじつま合わせをその都度だけしかせず、こじつけや問題の矮小化を繰り返すので、真面目に読むことが馬鹿らしくなってくるのだ。
八〇〇語ごとに夢で思いついたことを繰り返しているだけからそうなることは必然なのだが。
キャラクターも章ごとに別人格のようにコロコロ変わる。
いずれも後年、疑似科学にどっぷりハマったヴォクト氏らしい作話術だ。
他の人が知らない自分だけが知っている、世界を変えることが出来る秘密を切望する……点ではヴォクト氏の描く物語の登場人物は彼自身を体現しているかのようだ。
五時起床。
久しぶりに定時起床。
数日寝坊しただけで早起きの習慣は消えてしまい、朝が眠くて仕方がない。
じたばたと泳ぐようにしか動くことができない。
そんなこんなでエンジンがうまくかからず、日がない一日つまらないことにかかかりきりで終わってしまう。
一八時自転車で外出、ユナイテッド・シネマとしまえんにて映画鑑賞。
二一時帰宅、寝室で布団に潜り込むがなかなか寝付けずずっと本を読んでいる。
読み終えて午前一時半就寝。
◇
こんな映画を観た! 14年11月28日
【映画】『天才スピヴェット』:ユナイテッド・シネマとしまえんで鑑賞。
こんな本を読んだ! 14年11月28日
【本】『スラン』A・E・ヴァン・ヴォクト