【本】『2010年宇宙の旅』アーサー・C・クラーク

唐突に登場する中国製宇宙船のエピソードが後半、物語に全く絡んでこない。
新しく象徴的な物語を描くことが得意であっても、クラーク氏は(アシモフ氏、ハインライン氏に比べると)ストーリーテラーではないことを実感。
個々のエピソードがあまり有機的に絡み合わない。

人を超越した存在になった(ディスカバリー号の)ボーマン船長が、まず元ガールフレンドのもとへ向かうところが俗っぽい。
高次元の存在は(ブッダやイエスが家族を捨てたがごとく)そういった感情を超越するから、肉を捨てたといえるのではないか。

ハルがレオーノフ号の乗組員を助けるために自らを犠牲にした後、ボーマンによって高次元の存在に変化させられる理屈がよくわからない。
スターゲートを通らずこういうことが出来るのなら『二〇〇一年宇宙の旅』後半のコンピューターと人間の攻防で、どちらが先に到着しても結果は一緒だったんじゃないのか?