こんな本を読んだ!」カテゴリーアーカイブ

本を読むことはあまり得意じゃないのですが、頑張って読んでいます。
 
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【本】『思考の整理術』前野隆司

システムがうまく回ること前提で設計された日本社会は、グローバル社会の中でガラパゴス化していく。
(受験レベルから)記憶を重視していた日本では、一般的に頭のいい人とは記憶力がいい人で、独創的な答えを出す人ではなかった。
決められた答えを出すことにのみ特化させたことで戦後の成長があったのだ。

地球規模の大きなパラダイム・シフトが始まった昨今、記憶力重視の日本が生き残ることは難しい。
忘れることも必要だということを説いているこの本によると、
個人レベルであっても記憶力がいいことは必ずしも幸せな結果にならないという。
エピソード記憶がずば抜けている僕は、だからいろいろないらないことを忘れてしまいましょうと言われてもあっさりと脳内をリセットすることはできず、どうすればいいのか結局わからない。

【本】『カオスノート』吾妻ひでお

『アル中病棟』と打って変わって意味性の低いギャグ漫画。
コマ割りも絵も漫画演出的にはわかりにくいところがない(吾妻氏の読者に対する客観性がきわめて高い)。
きれいに整理されている内容の、ある限られた部分だけがナンセンスだから「ここはこういう部分のナンセンスなのだな」と読者から見ると整理しやすい。
吾妻氏のナンセンスは完全に意味が無いわけでなく、どこかしこに思考の痕跡が見える。
実は、このわかりやすく見せていること自体が凄まじく高度なことなのだが。

名人芸の大喜利を見せられているようだ。
しかしその芸は外から見えるほど簡単なものではなく稀有な才能によって生み出されたもの。
卓越した職人芸と天賦の才の両輪がなければこの漫画は成立し得ない。

僕の好みは135ページの「ちょっと! 今私の足見たでしょ!」のエピソード。
理屈が通っているようで、通ってない……ぐんにゃりした気持ちになるものが好き。

学生時代から本屋や古本屋を巡り吾妻氏のSF漫画を集めていた自分からすれば、新作を読むことができるというだけで至福のひとときだ。

【本】『ワインズバーグ・オハイオ』シャーウッド・アンダソン

ブラッドベリ『火星年代記』あとがきよりこの小説を知る。
風景画に点景で描かれた人間のように、オハイオ州の架空の町ワインズバーグを舞台にそこで生活する住人たちを描いている。

一番中心に描かれている新聞記者、そして学校の先生と牧師が絡む一連のエピソードは面白かった。
さらに物語が連鎖して有機的に広がっていけば、もっと僕好みの小説になったのだが、意外と個々の登場人物の関連は希薄で、中心となるべき大きなイベントも無く淡々と物語が進む。
平凡だが少しいびつな(逆説的にだからこそ平凡である)住人はそれぞれの夢を追いかけているが、現実に押しつぶされ街にへばりつくようにして生きている。

ラスト、主人公は夢をかなえるためにはこの街から出ていかなけれはならないことを知る。
列車が遠ざかるに連れ、恋人や家族のいる街が意味を失い点になっていく……
僕自身が上京したときのことを思い出し、切ない。

【本】『大人も子どももわかるイスラム世界の「大疑問」』池上彰

「妬む」神だから「ヤハウェ以外は神としていけない」というユダヤ教から始まった一神教、そんな完成されていない人格を持った神様ってどうなの?
そういうものだから仕方がない、と捉えているのだろうか。

日本のように特定の宗教に対して敬虔であるとはいえないが、ゆるやかに生活レベルで様々な宗教を受け入れているスタンスは、きっと他国からは奇異に感じるのだろう。
逆にイスラム教ほどルールが厳しいと、信者同士の一体感が増すわけで、おそらく連帯することによって得られる安心感は日本の比でないのだろう、というのはわかる。

自分がイスラム教に対して持っている違和感を、相手もこちらに対し同様に持っているということを忘れないようにしたい。

【本】『人間の手がまだ触れない』ロバート・シェクリイ

SF的寓話短篇集。
SFという概念を日本が輸入したとき、この作家は新鮮に感じられたらしい。
往事の星新一氏や筒井康隆氏を彷彿とさせる。
古き良き時代のSFだが、経年劣化は免れられない。

この短篇集は物語の形式が寓話で、設定レベルがSFのものが圧倒的に多い。
「怪物」「体型」「専門家」「儀式」は異星人側から観た地球の文化・文明批評となっているこっけい譚。
(初期ウルトラシリーズの怪獣譚が、日本について文明についてのメタファーであったように)
今やその設定はもうパロディでしか成り立たないほど使い古されている。

しかし特に「人間の手がまだ触れない」「専門家」などの短編は、使い古されたテーマであり素材であるにも関わらず、登場する怪物の造形やキャラクター、語り口がいまだ魅力的だ。
経年を経て何が残り何が色褪せるのか、ここに若干の示唆があるのかもしれない。

【本】『ハローサマー、グッドバイ』マイクル・コーニイ

冒頭のたるい展開、正直とっつきにくかった。
飲み込みづらい世界観、この世界特有の用語の多さ、SF的設定の退屈さ、ドラマチックでない主人公とヒロインとの出会い。

世界観がはっきりわかってくるにつれ、本を手放すことができなくなるほど面白くなる。
青春小説という側面もあるが、それでいて彼と彼女をとりまく社会もちゃんと描いている、骨太な小説の印象。
クライマックス直前は、痛ましい展開に読んでいられず本から目をそらしでも先が読みたくて手放せずに本を握るそしておもむろに読み始めては痛ましい展開に読んでいられず本から目をそらし……そんな無限運動を繰り返すほど夢中になる。

ラストがもう少しわかりやすかったらよかった。
飲み込みづらく書き過ぎ。
僕はメモをしながら丁寧に読むことを心がけているのだが、(ニュアンスは伝わってきたにも関わらず)完全にどういうことが起こったのかを理解することができなかった。
ネットを巡回していろんなひとの感想や批評を読みようやく得心した次第。

【本】『2001年宇宙の旅』アーサー・C・クラーク

人物の内面描写の希薄なことに驚く。
大きな宇宙で人類が寄る辺もなく孤独に生きている姿を描くため、象徴的に描かれるはずの主人公の内面がほとんどうかがい知れない。
彼の過去や現在もほぼ書かれていないに等しい。
葛藤も表面的なものは描かれるが、その奥にある彼の背景は全く見えてこない。
ああ、昔のSFってこんな感じだったよなあ……中学時代むさぼるように読んだ黄金時代と呼ばれていた頃の代表的なSF小説を思い出す。

映画版ではよくわからなかったモノリスを作った知的生命体の素性について、ここまで描く意味があるのかというぐらい詳細に描かれていた。
最近のSFならここまで手の内を明かさないだろう。
僕はある程度手の内を見せていただいたほうがありがたかったりするのだけれども、それ自体、自分がそれなりに古い人間になってきたということか。

【本】『パスポート・ブルー(全12)』石渡治

宇宙飛行士になるためエリート進学校に入学した主人公が、詰め込み教育に疑問を感じて友達の通う普通の中学校の授業を受けて衝撃を受ける。
「“これ”がフツーの……中学校なのか!?」
授業中なのに先生を無視して話を続ける生徒、雑誌を読んでいる生徒、麻雀をする生徒。

……ゆとり教育ってそこまでひどいのか。
そういう普通の学校からがんばって宇宙飛行士になる、という展開なら納得行くけれども、「その環境に流されてダメ人間になるのがオチ」とはすごい書き方だ。

宇宙飛行士ものというしばりの中で石渡氏が苦しんで描いているさまが見受けられる。
その中でもいくつかのエピソードは宇宙飛行士漫画として成功していると思う。
しかしおそらく石渡氏が得意であろう展開と宇宙飛行士漫画と相性が悪いのか、漫画的に面白くなるほど宇宙飛行士と関係ない話になる。

せっかく舞台が宇宙に広がってもそこで活躍する人物は主人公の知り合いばかりで、広いのか狭いのかよくわからなくてウニャ〜となってしまう。

【本】『2010年宇宙の旅』アーサー・C・クラーク

唐突に登場する中国製宇宙船のエピソードが後半、物語に全く絡んでこない。
新しく象徴的な物語を描くことが得意であっても、クラーク氏は(アシモフ氏、ハインライン氏に比べると)ストーリーテラーではないことを実感。
個々のエピソードがあまり有機的に絡み合わない。

人を超越した存在になった(ディスカバリー号の)ボーマン船長が、まず元ガールフレンドのもとへ向かうところが俗っぽい。
高次元の存在は(ブッダやイエスが家族を捨てたがごとく)そういった感情を超越するから、肉を捨てたといえるのではないか。

ハルがレオーノフ号の乗組員を助けるために自らを犠牲にした後、ボーマンによって高次元の存在に変化させられる理屈がよくわからない。
スターゲートを通らずこういうことが出来るのなら『二〇〇一年宇宙の旅』後半のコンピューターと人間の攻防で、どちらが先に到着しても結果は一緒だったんじゃないのか?

【本】『2061年宇宙の旅』アーサー・C・クラーク

主人公が、二〇六一年に再び近づいたハレー彗星へ向かおうとするところから物語が始まる。
出版された日付(一九八七年)から推測するに、前の一九八七年のハレー彗星ブームを当て込んだようだ。

前作『2010年宇宙の旅』の一〇〇〇〇年後の描写で、人類がエウロパに足を踏み入れることがなかったのであった……という書いてあるのに、この巻では普通に着陸している。

『2001年宇宙の旅』の小説版と映画版の違いは仕方ないとしても、『2010年宇宙の旅』以降新刊が出るたびにもとの設定が覆されていくことはどうも納得がいかない。
矛盾が生じないように続きを書くか、矛盾が生じるたび前作を書き直すかしてほしい。
連続した時間軸でなく分岐したパラレルワールドの未来世界のこととしか思えず、ここで起こっていることが無関係のことに思えてしまい納得しづらい。

クラーク氏は科学的な整合性にはこだわるけれど物語の整合性に関しては比較的どうでもいいようだ。

【本】『3001年終局への旅』アーサー・C・クラーク

映画『2001年宇宙の旅』を通じてニューエイジ世代に大きな影響を与えた象徴であるモノリスが、巻を追うごとにその神秘性が薄まり(『2010年宇宙の旅』では高機能の道具「スイス・アーミーナイフみたいなもの」と表現され)、この巻ではとうとう人類によって斃されてしまう。

『2001年宇宙の旅』のテーマ曲「ツァラトゥストラかく語りき」が象徴する、ニーチェの言う「超人への道」が新しい段階に達した。
この巻を読んでから映画と小説の『2001年宇宙の旅』を振り返ると、深い含蓄があることに改めて気づかされる。
僕にとって『3001年終局への旅』は触媒のようなもの。

モノリスを作った魁(さきがけ)種族が、木星の生物を全滅させ、人類やエウロパ人の進化を促進させたり知性を与えたり、やりたい放題。
知能が高い(道具を使いこなす)ことがよきこととして、ある星系の生命の進化を促進させたり滅ぼしたりする傲慢さ、帝国主義時代の欧米キリスト教文化圏とアジア・アフリカの関係のようだ。

『2001年宇宙の旅』でスターゲートを通過して高次元の存在となったボーマンが「人間性を剥ぎ取られた」というような描写が繰り返し出てくるけれども、そもそもクラークの描くキャラクターは元から人間性に乏しく、正直その差がよくわからない。

途中でハル9000(HAL 9000)とボーマンを区別するのが面倒くさくなったみたいで、登場人物も作者も彼らをまとめてハルマンと呼び出したことに苦笑。

【本】『スラン』A・E・ヴァン・ヴォクト

解説にも書いてあるがヴォクト氏は話が詰まると睡眠し、見た夢からヒントを得て書いたという。
これはシュルレアリスムの作家がよく使ったテクニックで、ちなみにシュルレアリスムはフロイトの精神分析の強い影響下で起こった芸術運動であり、現在では科学的立証が困難な精神分析を疑似科学とみなされることも多い。

さらにヴォクト氏はハウツー本で小説の書き方を学んだとか。
その方法は……

1:八〇〇語ごとに場面をかえる。

2:一場面は以下の五つのステップで構成する。
 A:読者にそこがどこかをわからせる。
 B:登場人物が何をしようとしているか、
   その場面が何のためのものかはっきりさせる。
 C:その何かを成し遂げようとする過程を描く。
 D:それが達成されたかどうか明らかにする。
 F:目的が達成されたにせよされないにせよ、事態は悪化する。

これも(ヴォクト氏だけが知っている)秘密のひとつなのだろう。
物語の冒頭は、確かにこの「小説の書き方」を使うことによって成功している。
しかし物語中盤から急激にボロが出はじめる。
後半あきらかに物語が破綻してしまう。
伏線をたくさんまき散らしているにも関わらずつじつま合わせをその都度だけしかせず、こじつけや問題の矮小化を繰り返すので、真面目に読むことが馬鹿らしくなってくるのだ。
八〇〇語ごとに夢で思いついたことを繰り返しているだけからそうなることは必然なのだが。
キャラクターも章ごとに別人格のようにコロコロ変わる。

いずれも後年、疑似科学にどっぷりハマったヴォクト氏らしい作話術だ。
他の人が知らない自分だけが知っている、世界を変えることが出来る秘密を切望する……点ではヴォクト氏の描く物語の登場人物は彼自身を体現しているかのようだ。