【映画】『アクト・オブ・キリング』

大量虐殺について:
ミロのヴィーナスを美しいと感じるのはそういう背景の文化の中にいるからで、芸術は学習によって後天的に学ぶ概念だ。
同じように夕日を美しいと思うことができるのも、我々のいる場所が安全だから。
アフリカでは夜に近づくと捕食動物が跋扈するので、夕日をみると人は恐怖を感じるという。
すなわち、殺人という行為にブレーキがかかかるのは、あくまで僕たちがそういう文化圏に住んでおり、映画や小説や法律や映画や日常会話……それを前提とした文化があって、共通理解のもとで、コミュニケーションがしているから。
目的のためには殺人もよしとする文化圏では、僕達が非難しても、
「じゃあイラクでアメリカは?」
「文化大革命で中国は?」
「第二次世界大戦中の日本は?」
と相対化されるだけ。

映画作りについて:
(対象として)主人公のアンワルにとって、この映画を作るという行為がカウンセリングそのものだったのだろう。
悪夢(罪悪感からの)に悩まされるアンワルが、自分を苦しめる共産主義者を怪物の着ぐるみで再現する行為は、小さい子がオバケの絵を描いた上から×を大きく描いて「コワクナイ!」と宣言するようなもの。
自分のした行為を告白、映画化することで昇華しようとした。
しかし映画を観たとき、そこで自分自身を折り合いをつけるどころか、心の奥底に抑圧してきた考え(疑い)までが表面に浮かび上がってくる。
客観的に自分を見てしまう。
(目的のためなら人が殺していいという共通理解があったとしても、それを否定する考えかたがあることも知っている)

カウンセリングのさらに先に到達してしまった。