こんな本を読んだ!」カテゴリーアーカイブ

本を読むことはあまり得意じゃないのですが、頑張って読んでいます。
 
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【本】『レオちゃん』手塚治虫

漫画は、内容とあまり関係なくコマ割りの大きさと読みやすさが比例することを確信(少なくとも手塚氏は)。
『ジャングル大帝』のタイアップで掲載された他愛のない読み切りオムニバスだが、このぐらいコマ割りが大きければ幼年向けなのに読んでいてちっとも苦痛でない。じゅうぶん楽しむことが出来た。
八ページといえどもノリにノッていたこの頃の手塚氏が一本五時間で仕上げてしまったということにも驚愕。手塚氏には驚かされてばかり。

【本】『巨獣めざめる (上下)』ジェイムズ・S・A・コーリイ

物語になかなか入っていけず上巻の四三〇ページは苦痛でしかなかった。下巻に入り物語が大きく動き始めてホッとした。ラストはSFらしいSF。
キャラクターが定型的・記号っぽいと思ったら、実際、RPGの設定として温めていたものを物語に膨らませたものとのこと。
費用対効果でいえば、それなりに面白い結末に対してそれまで我慢しなければならない展開が長過ぎる。
ぎりぎり得したかな?

【本】『マコとルミとチイ』手塚治虫

手塚氏が描いた最も私小説的なもののひとつ。さわりだけ漫画家のプライベートっぽく描写しても、最後はいかにもフィクションっぽい話に着地してしまう。稀代のストーリーテラーである手塚氏はしかし細部のリアルの積み重ねが苦手なのだなとつくづく実感。
その言い訳かあとがきにて「最近のデビューしたての若い漫画家たちの作品は、大半が自分の体験(ことにキャンパスの恋愛や学校経験)を生に出した漫画で、私漫画に近いのかもしれません。それはそれでよいのですが、こういったものは体験をひととおりかい終えてしまうと、その漫画家は一発屋で終わってしまいます」のこと。
しかしこれはまさに僕自身のことを指しているようで、そういうところからずっともがいているなあと自戒も込めてメモ。

絵柄は手塚氏の何回目かのピークで、丁寧かつ動きが流麗。

【本】『一輝まんだら(全2)』手塚治虫

無学で顔が不自由な中国人女性が義和団の乱に参加して日本へ逃亡するまでがこの物語のおもなプロット。彼女がタイトルに登場する北一輝と出会ってすぐにバッサリと打ち切られている。
おそらく北一輝を中心にして曼荼羅のように周囲に広がる世界、物語が進んだら数十巻にもなるボリュームのものを手塚氏は構想していたのではないか。読者にはこのプロローグ的なものから推測するしかない。
物語としての魅力、引きが強い(逆に言うと引きしかない)だけに、この先この物語の収拾をどういう風につけていくのか見たかった。
手塚氏には波があって、この作品が欠かれたのは物語的には充実していくが絵柄的にはあきらかに思い入れが感じられない時期。描線は全体的に雑で、背景と人物が噛み合ってない部分が多い。

【本】『やけっぱちのマリア(全2)』手塚治虫

本棚の奥から秋田書店版を引っ張り出してきたら「SFコミックス」と銘打たれていた。手塚氏自身は日本初の少年誌連載の性教育漫画!という意気込みだったのだろうけど。
この漫画、誰が得するんだろう。子供は性教育部分を説教臭くてとばしてしまうし、主人公がダッチワイフって時点でPTA推薦図書にはなり得ないし、手塚氏も一二回で打ち切られてしまうし、肝の性教育に関する知識もいま読みかえすと偏見に満ちているし。主人公のマリアも、ヤケッパチに好きな女の子ができたらすぐに捨てられてしまうし!
捨てられると言っても比喩ではなく本当に捨てられてしまう……ボロボロになったダッチワイフのマリアが箱に詰められ川に流されていくところでラスト。神話の誕生みたいでちょっと格好いい。
僕のなかで『やけっぱちのマリア』は、ここから『どろろ』がはじまる前日譚ということにする。

たとえばこんな知識。

たとえばこんな知識。

【本】『人間昆虫記(全2)』手塚治虫

人間昆虫記とはまさに手塚治虫氏のことを指すのではないか。
同時期(七〇年〜七一年)に連載された『きりひと讃歌』と対をなす大人向け手塚氏大人向け漫画。この二年後の七三年に虫プロ倒産、そして『ブラック・ジャック』連載開始。この作品の前後からそれまでの手塚氏にないキャラクターの内面変化が顕れる。この作品前後の虫プロ倒産のゴタゴタなどが手塚氏の脱皮するおおきなきっかけになったと思われる。
僕には、様々な職業の恋人から才能を吸収し脱皮していく主人公の十村十枝子の姿が、様々なトラブルや新人漫画家からさえも貪欲に新しいものを吸収していった手塚氏自身と重なってしかたないのだ。

【本】『日本発狂』手塚治虫

死後の世界の人々が日本に移住してパニックになる部分が「日本発狂」、しかしそれはラスト二〇ページぶんしか描かれていない。手塚氏自身はそういうドタバタに興味が無いようで描写も極めて淡白。
筒井康隆氏ならそこから始まりそこに終わる物語になっただろう。

【本】『魔神ガロン(全1)秋田書店版』手塚治虫

本棚の奥から引っ張り出してきて全集版と比較。ガロンが海で大渦巻に巻き込まれるところでプッツリ終わっているのはもとの全集版と同じ。
しかしその後に取って付けたように
「けっして死んだりしないよ またげんきな姿をあらわすよ」
と登場人物が海面を指し、無責任につぶやくシーンが追加されている。

【本】『魔神ガロン(全5)』手塚治虫

もともとの手塚治虫全集版(全三〇〇巻)では全二巻で、ガロンが海で大渦巻に巻き込まれるところでプッツリ終わっている。
死後に編まれた第四期手塚治虫全集版でようやく連載作品が全て収録される。何とももの悲しいラスト。
人類がエゴを捨てることができないこの世界においてピックとガロンが幸せに暮す絵を描くことが、手塚氏にとってリアリティがなかったということか。

【本】『ジョナサンと宇宙クジラ』ロバート・F・ヤング

今回で再読四回め。学生のとき五冊一〇〇円で購入、一〇代、二〇代、三〇代とことあるごとに読み返してきた。
読んでいて懐かしさがこみ上げくるが、それは大学時代の初読時もそうだったので、きっとこの作品には人を普遍的にそういう気持ちにさせる何かがあるのだろう。
ノスタルジックなものに対する思い入れの強さは、ジャック・フィニイ氏と似ている。物語作りはフィニイ氏のほうが確実に達者だが、「たんぽぽ娘」のような、少女がらみ(あるいはボーイ・ミーツ・ガール的な)の題材は確実にヤング氏のほうが現代の日本人に受けるだろうと思うし、昨今の出版ラッシュはそれを裏付けている。
表題作「ジョナサンと宇宙クジラ」について、ギリシア神話と聖書をうまく引用して作った話だなあと感心する。最近、自分が神話を集中的に読むことが多かったので余計そう思ったのだが。ヤング氏はそんなに複雑なプロットを駆使しないぶん、こういうところに凝っている。

メモ:
九月は三十日あった:家庭教師ロボットが過去の古典の改変テレビドラマに怒り狂う。
魔法の窓:九月は三十日あった、と内容的に似ている。窓の外。画家。少女。
ジョナサンと宇宙クジラ:宇宙クジラを一七歳の少女に擬人化させるその発想がいま現在の日本の読者向けすぎ。今の日本人と場所も年代も違うのにどういうシンクロニシティ?
サンタ条項:悪魔が「サンタが本当に存在したら」男の願いをかなえると……少しこじつけすぎに思う。星新一氏のような。
ピネロピへの贈りもの:
雪つぶて:アンブローズ・ビアス 『アウル・クリーク橋でのできごと』的なもの? 着陸した宇宙人の円盤に向かう兵士、幼いころの雪合戦の記憶が交差する。
リトル・ドッグ・ゴーン:瞬間移動する犬。
空飛ぶフライパン:ピーナッツバター作戦のような。
ジャングル・ドクター:少女のように見える精神科医の宇宙人が誤って地球に転送され、妻を亡くしたアル中男のもとへ。
いかなる海の洞に:海辺で拾われてきた巨人族の彼女、その姉、大金持ちの主人公。ラストが切ない。

【本】『火の山』手塚治虫

史実をもとにしたドキュメンタリー漫画中心の短篇集。
表題作「火の山」は、昭和新山の観測にかける男たちについて、手塚氏が実際に取材して描いたもの。
独特のキャラクター、悲劇性が見え隠れ、史実をもとにして描いたものの中ですら消すことのできない手塚氏の個性なのだと実感。

【本】『地球を呑む(全2巻)』手塚治虫

あとがきにて手塚氏いわく、「この作品でいちばん気にいっていたのはタイトルです」は裏を返せばタイトル以外は気に入っていなかったということ?
いわく、中だるみ、物語が広がりすぎて収拾がつかなくなった……
いわく、大河もの連載の欠点がこの『地球を呑む』でも露呈した……
手塚氏の自作けなしは自作を愛しすぎるゆえのレトリック(言い回し、表現方法)だと思っているのでそのまま受け取りはしないけれど、バランスがおかしい作品であることは確か。しかしそういう歪みを含めて手塚漫画の魅力なので、この漫画は憎めなくて、いつも手元に置いておきたいのだ。

【本】『雑巾と宝石』手塚治虫

あとがきにて、タイトルは『ボロと宝石』にするつもりだったが「どうしても漢字で書きたくて「襤褸」としたら、編集者に今どきそんな文字を読める人間はいないといわれ、仕方なく“雑巾”と書いてボロと読ませたのです。ところが、またもや編集者に、雑巾をボロとは読まん、雑巾のまちがいだと思われるといわれ、えいくそとばかりゾーキンに変えてしまいました。」そして勢いで主人公の名前を須形ボロ子から象野キン子に変えてしまったとのこと。
だったら、ひらがなで『ボロと宝石』にしたらよかったのでは? 漢字の字面にこだわったのだろうか。
手塚氏にとって何が譲れないものなのかがわからない。 
「日付健忘線」など他のヤング誌に発表された収録作も味わい深い。

【本】『冒険放送局』手塚治虫

幼年もの作品、手塚氏自身が意識してディズニータッチで描いてたとのこと。生きているかのように飛びはねる動物が見ていて気持ちいい。漫画やアニメの根源的な楽しみはこういうことなのじゃないかと思う。遠いところでさまよっている自分も早くここへ戻りたい。
漫画の内容に関して。巻頭の「冒険放送局」は『ドラえもん』のもしもボックスのような機械が引き起こすドタバタ。後半の「ボンゴ」はインカ文明の末裔の少年が活躍する冒険譚。後者のほうが整合性があって好み。手塚氏っぽくない凶暴なまでのハッピーエンドは幼年向けだから?

【本】『時計じかけのりんご』手塚治虫

個人的な印象では、この本は全集版の中で最も完成度が高い短篇集。
手塚氏の短編も全体を通せば藤子・F・不二雄氏に負けないほど面白いのだが、平均点は高くない。
F氏はストイックに「奇妙な味」中心に描くのだが、手塚氏は好きなもの(描きたいもの)の範囲が広すぎて、ともすればバランスを失いがちになってしまう。そしてあきらかにオーバーワーク。しかし下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる(しかも下手でない名人芸)わけで、珠玉の作品も生まれるからそれを一概に否定できないが。
あとがきにて手塚氏いわく、「時計じかけのりんご」はニュアンスだけでつけたタイトルとのこと。同じように「ロスト・ワールド」「メトロポリス」等も原典を読まずにつけたタイトルなので、似たタイトルだからと作品を比較して論じられても困ると力説。
最後に自分の描いた「最上殿始末」(全集『火の山』に収録)に言及、黒沢明「影武者」に似ていると誤解する方がいるなら、それは偶然で自分が先に描いたものだ!と主張し始める。
勢いあまって他の作品集の言い訳をここでするということは、誰かに言われてよっぽどカチンときたのだろう。