タイトルにある「捕食」から『寄生獣』みたいなものかと思っていたらそうでもないようで、『ボディ・スナッチャー』のようなものかと思っていたらそれも違うようで、隠喩か実際の光景かよくわからない映像が続き、そして説明がないので戸惑うばかり。
おそらく『二〇〇一年宇宙の旅』のように本来理解できることを、意図的に説明を省くことによって難しくしている、ハッタリの一種なのではないか。
大量虐殺について:
ミロのヴィーナスを美しいと感じるのはそういう背景の文化の中にいるからで、芸術は学習によって後天的に学ぶ概念だ。
同じように夕日を美しいと思うことができるのも、我々のいる場所が安全だから。
アフリカでは夜に近づくと捕食動物が跋扈するので、夕日をみると人は恐怖を感じるという。
すなわち、殺人という行為にブレーキがかかかるのは、あくまで僕たちがそういう文化圏に住んでおり、映画や小説や法律や映画や日常会話……それを前提とした文化があって、共通理解のもとで、コミュニケーションがしているから。
目的のためには殺人もよしとする文化圏では、僕達が非難しても、
「じゃあイラクでアメリカは?」
「文化大革命で中国は?」
「第二次世界大戦中の日本は?」
と相対化されるだけ。
映画作りについて:
(対象として)主人公のアンワルにとって、この映画を作るという行為がカウンセリングそのものだったのだろう。
悪夢(罪悪感からの)に悩まされるアンワルが、自分を苦しめる共産主義者を怪物の着ぐるみで再現する行為は、小さい子がオバケの絵を描いた上から×を大きく描いて「コワクナイ!」と宣言するようなもの。
自分のした行為を告白、映画化することで昇華しようとした。
しかし映画を観たとき、そこで自分自身を折り合いをつけるどころか、心の奥底に抑圧してきた考え(疑い)までが表面に浮かび上がってくる。
客観的に自分を見てしまう。
(目的のためなら人が殺していいという共通理解があったとしても、それを否定する考えかたがあることも知っている)
カウンセリングのさらに先に到達してしまった。
一五年ぶりに鑑賞、今観ても古くなっていない。
スピーディだが早すぎず、観ていて退屈しない。
犯人の考えていることが以前と同じく相変わらずさっぱりわからない。
浦沢直樹『MONSTER』でも思ったことだが、悪が、「世界の記憶に残るだろう」などインパクトを喧伝するわりにはやっている自体はありふれている事件……とまではいかないが最後は「刑事が妻を殺された怒りで犯人を射殺する話」、新聞に載っていてもおかしくはない。
宇宙の終わりの一つの仮説である、相転移現象のように一瞬にして全世界に波及するほどの事象でもない。
観客は世界が揺らぐほど驚くが、それはあくまで主人公側の視点から観ているからのことだ。
犯人が話していたことが、あくまでブラッド・ピットに対してだけ語っていたことなら、まだ腑に落ちる。
存在しているが普段は見ることができない(石ころ帽子的な)クモ人間によって、人間社会は支配されている。
主人公は秘密クラブのセックスによってクモ人間によって生み出されたクローン人間で、『ブレードランナー』のように、自分はひょっとしたらクローン人間なのか? 真実の人間とはなにか? 的な問題と日常を絡めた物語。
……だと思って、鑑賞後調べてみたら全然そうではなかった。
ドッペルゲンガーもので、現実にあったことを妄想を混じえて時系列通りに流さずにシャッフルすることで、ある種のミスリードを誘うようになっているみたいだ。
ただでさえそんなミスリードを誘う映画なのに、邦題がクローンを想起させるものだから余計そっち側に引き寄せられてしまう。
クモを使った隠喩も、まるでそういう現実に存在する化け物みたいに描いているからSF的な設定を受け入れてしまう素地になっている。
クモも実際の小道具として物語に絡ませたりあくまで妄想としてわかる演出だったら、わかりやすい内容だった。
ということは、この映画で不可解な部分は叙述レベルのことで、内容はそこまで哲学的な話でもないし、深みはない、わりかし「そのまま」な話。
フェアじゃない!
・可視化した都市サイズのUFO。
・コンピューターウィルスによって宇宙人を倒す。
この二点が公開当時、斬新だった。
しかしその他の価値観や見せ方は既存のハリウッド映画を一歩もはみ出していない。
既視感のある見せ場を当時の最先端の技術で映像化し、職人的なテクニックで物語をコラージュしたような……それはそれで一級品だが、ビッグバジェットSF映画のパロディのようだ。
宇宙人の捕虜を必要以上にどつきまわす、ウィル・スミスの粗暴な行動にイライラする。
第二次世界大戦中、日本軍が捕虜の扱いが悪かったことを欧米人が非難するなら、こういう見せ方でカタルシスをつくるなよ!
フィクションであれ観客が心地いい描きかたなわけで、こういう行動をアメリカ人がどこか許容しているということではないか。
(今ならイスラム圏に対して)
学生の頃、友だちに勧められて観たとき、ピンとこなかった。
今回観直してもやっぱりピンとこなかった。
だけれども単純に面白くない、と言ってしまうには言い切れない……変な噛み切れなさが口の中に残る。
作っている人たちの志の高さはわかるのだけれども、理屈が先に出すぎていて面白さがついてこられずにいる印象だ。
暗殺者から逃げるシークエンスは、メリハリがなく唐突に始まったり終わったりを繰り返す。
僕と映画の間で感情移入ポイントのズレのようなものがあり、それが違和感になって、主人公が逃げているシーンも、夢の中のように身体がうまく動かないもどかしいものとして伝わってくる。
映画全体に(おそらく意図的でない)夢の中のような浮遊感で満ちている。
意図の消化不足のせいだろうか……しかし今の基準から見てもじゅうぶん高い技術で作っている。
その高い技術力を持っても到達できなかった志の高さということか。
そこまでの志の高さに当時どこまで勝算があったのかわからないけれども、それでも戦いをいどむ姿勢に対しては凄みを感じる。
原作は何度も読んでいたが、映画版を観るのは今回初めて。
調査のため惑星ソラリスへ訪れた主人公。
ソラリスの海は、人間が普段心の奥底に封印している思い出したくない記憶(に関わる人)を実体化させる作用がある。
主人公クリスは、一〇年前に自殺した妻と惑星基地で邂逅する。
思わぬ事態にうろたえ、現れた妻をロケットに詰め宇宙へ放逐してしまう。
しかし妻は再び同じように現れる。
クリスは、自分の過去におかした過ちと向き合うため、訪問者(ソラリスの作った人間)としてではなく、彼女を人間として(現実の妻として)向き合うことを選択する。
クリスの記憶だけの範囲でしか思考ができなかった妻は、彼との触れ合いの中で自我が目覚め人間に近づいていく。
そんな妻の辿り着いた答えは、皮肉なことに自らの死だった。
科学者仲間から妻の死を知らされ、主人公は落胆する。
そんな彼をねぎらうかのように、ソラリスは、主人公が捨てたはずの故郷を再生させる。
そして主人公は父に許しを請うようにひざまずく……
原作にあった、人類をはるかに越えた知性とのコミュニケーション的な要素はなくなり、ソラリスは人の思い出を具現化させる装置としてのみはたらいている。
それを深みがなくなったと捉えるかどうかは難しいところだ。
天啓とは、周囲に起こった出来事、白昼夢で見た映像を、自分なりに解釈すること。
何とノアの受けた天啓は「邪な人間を全て始末して動物だけを生き延びさせろ」。
方舟を作るとき、管理だけのためだけに必要最低限の人間(自分の家族)は生きながらえさせてもらっているだけで、それが終わると自ら滅ぶ運命……という解釈だったのだ。
それなのに子供がみごもっていることがわかったからさあ大変、ノアが刃物を手に赤子を抱えた娘を追いかけまわす『悪魔のいけにえ』な展開になる!
その独善たるやグリーンピースやシーシェパードを彷彿とさせる。
しかし、この映画で描かれているノアの箱舟は、天使(ウォッチャー)と神の奇跡によって作られたわけで、ノアの家族こそ何もしていない。
では何故ノアの家族が選ばれたのか?
それはひとえにカインの子孫より神を信じている(信心深い)からだろう。
聖書の中の神(ヤハヴェ)が天罰をくだされたとき……ソドムとゴモラ、最後の審判、ノアの方舟など……助けるものの優先順位は、神を信じているものが、善きことをしているものに優先される。
貢献度順ということだろうか……紅白歌合戦のようで、納得がいかない。
最近子供が生まれた友人が、酔って僕に絡み
「俺から言わせれば結婚もしてなくて子供の一人もいないお前はまだまだひよっこだよ!」
……そいつがものすごく嫌いになった。
そんな説教をする奴のどこが大人やねん!
とそのとき思ったものだが、その友人がこの電気屋のお父さんそっくりなのだ。
貧乏だけど手作り感でカバーする、アットホームな家族という押し付けに……もう、うんざり。
(既成概念から踏み出していない「よきこと」)
こんなお父さんがいたら、僕なら確実に反抗期で大暴れだ。
距離を置いてくれる父親のほうがまだマシだ。
自分がわかっていないことが成長してわかるということは成長の余地が残っているということ。
大人(父)になりきれていない(福山雅治演じる)野々宮さんのお父さんにほうに、僕は強く感情移入できる。
しかしこの映画で描かれているように、この電気屋みたいな父親に子供が魅力を感じるということはリアリティのあること。
となると子供に「子供だまし」は有効なのだろう。
カツラは、大人は大騒ぎするけれども子供は意外とかぶっていることに気づかないものだ。