こんな映画を観た!」カテゴリーアーカイブ

映画の見方がわからない人が感想を書いています。ばんばんネタバレしていきますよ〜!
フェイバリット映画は『遊星からの物体X』。
時々アニメやドラマやドキュメンタリーの感想も入ります。
(特に記載がない場合はDVDでの鑑賞です)
 
このカテゴリーの目次はこちら→こんな映画を観た!

【映画】『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』

タイトルにある「捕食」から『寄生獣』みたいなものかと思っていたらそうでもないようで、『ボディ・スナッチャー』のようなものかと思っていたらそれも違うようで、隠喩か実際の光景かよくわからない映像が続き、そして説明がないので戸惑うばかり。

おそらく『二〇〇一年宇宙の旅』のように本来理解できることを、意図的に説明を省くことによって難しくしている、ハッタリの一種なのではないか。

【映画】『魔人ドラキュラ』

黒いマントを羽織りいかにもな格好をして
「私はドラキュラ伯爵です」
と名乗っているのに、周囲は彼を怪しいと思わない。
そして事態がどんどん悪化、ドラキュラによる被害者が増えていく。

初代ゴジラの映画における、
老人「あれはゴジラかもしれん……」
若い女「まーた、おじいさんのいつものやつが始まった! そんな言い伝え本当にあるもんかよ」
という会話をいま観る違和感のような……もはや当たり前過ぎて疑うこともないほど一般名詞化した事象を皆が信じない光景は、わかっていても不思議。

【映画】『アクト・オブ・キリング』

大量虐殺について:
ミロのヴィーナスを美しいと感じるのはそういう背景の文化の中にいるからで、芸術は学習によって後天的に学ぶ概念だ。
同じように夕日を美しいと思うことができるのも、我々のいる場所が安全だから。
アフリカでは夜に近づくと捕食動物が跋扈するので、夕日をみると人は恐怖を感じるという。
すなわち、殺人という行為にブレーキがかかかるのは、あくまで僕たちがそういう文化圏に住んでおり、映画や小説や法律や映画や日常会話……それを前提とした文化があって、共通理解のもとで、コミュニケーションがしているから。
目的のためには殺人もよしとする文化圏では、僕達が非難しても、
「じゃあイラクでアメリカは?」
「文化大革命で中国は?」
「第二次世界大戦中の日本は?」
と相対化されるだけ。

映画作りについて:
(対象として)主人公のアンワルにとって、この映画を作るという行為がカウンセリングそのものだったのだろう。
悪夢(罪悪感からの)に悩まされるアンワルが、自分を苦しめる共産主義者を怪物の着ぐるみで再現する行為は、小さい子がオバケの絵を描いた上から×を大きく描いて「コワクナイ!」と宣言するようなもの。
自分のした行為を告白、映画化することで昇華しようとした。
しかし映画を観たとき、そこで自分自身を折り合いをつけるどころか、心の奥底に抑圧してきた考え(疑い)までが表面に浮かび上がってくる。
客観的に自分を見てしまう。
(目的のためなら人が殺していいという共通理解があったとしても、それを否定する考えかたがあることも知っている)

カウンセリングのさらに先に到達してしまった。

【映画】『普通の人々』

慎重な演出で、登場人物全員それなりにリアリティを持って描いているのだけれども……
母親が次男にストレートな愛情を持つことができず拒絶する様子があまりにも尋常でない。
あたかも主人公側(父親と息子)の敵のように描かれていて、母親の内面が最後までうかがい知れないままだった。

父親と息子は成長(変化)するが、母親は変化を拒否し(実際に公言し)去っていく。
解決しないまま、そんな現実を突きつけて物語は終わる。
これもひとつのリアリズムの形だろうけれども……到底「普通」じゃなさすぎる。
そういう「普通」でない人も含めてタイトルの『普通の人々』という意味なら、たしかにそうだ。

【映画】『セブン』

一五年ぶりに鑑賞、今観ても古くなっていない。
スピーディだが早すぎず、観ていて退屈しない。

犯人の考えていることが以前と同じく相変わらずさっぱりわからない。
浦沢直樹『MONSTER』でも思ったことだが、悪が、「世界の記憶に残るだろう」などインパクトを喧伝するわりにはやっている自体はありふれている事件……とまではいかないが最後は「刑事が妻を殺された怒りで犯人を射殺する話」、新聞に載っていてもおかしくはない。
宇宙の終わりの一つの仮説である、相転移現象のように一瞬にして全世界に波及するほどの事象でもない。

観客は世界が揺らぐほど驚くが、それはあくまで主人公側の視点から観ているからのことだ。
犯人が話していたことが、あくまでブラッド・ピットに対してだけ語っていたことなら、まだ腑に落ちる。

【映画】『複製された男』

存在しているが普段は見ることができない(石ころ帽子的な)クモ人間によって、人間社会は支配されている。
主人公は秘密クラブのセックスによってクモ人間によって生み出されたクローン人間で、『ブレードランナー』のように、自分はひょっとしたらクローン人間なのか? 真実の人間とはなにか? 的な問題と日常を絡めた物語。 

……だと思って、鑑賞後調べてみたら全然そうではなかった。
ドッペルゲンガーもので、現実にあったことを妄想を混じえて時系列通りに流さずにシャッフルすることで、ある種のミスリードを誘うようになっているみたいだ。
ただでさえそんなミスリードを誘う映画なのに、邦題がクローンを想起させるものだから余計そっち側に引き寄せられてしまう。

クモを使った隠喩も、まるでそういう現実に存在する化け物みたいに描いているからSF的な設定を受け入れてしまう素地になっている。
クモも実際の小道具として物語に絡ませたりあくまで妄想としてわかる演出だったら、わかりやすい内容だった。
ということは、この映画で不可解な部分は叙述レベルのことで、内容はそこまで哲学的な話でもないし、深みはない、わりかし「そのまま」な話。

フェアじゃない!

【映画】『インデペンデンス・デイ』

・可視化した都市サイズのUFO。
・コンピューターウィルスによって宇宙人を倒す。

この二点が公開当時、斬新だった。

しかしその他の価値観や見せ方は既存のハリウッド映画を一歩もはみ出していない。
既視感のある見せ場を当時の最先端の技術で映像化し、職人的なテクニックで物語をコラージュしたような……それはそれで一級品だが、ビッグバジェットSF映画のパロディのようだ。

宇宙人の捕虜を必要以上にどつきまわす、ウィル・スミスの粗暴な行動にイライラする。
第二次世界大戦中、日本軍が捕虜の扱いが悪かったことを欧米人が非難するなら、こういう見せ方でカタルシスをつくるなよ!
フィクションであれ観客が心地いい描きかたなわけで、こういう行動をアメリカ人がどこか許容しているということではないか。
(今ならイスラム圏に対して)

【映画】『ガガーリン 世界を変えた108分』:新宿シネマカリテにて鑑賞

何と……映画の長さは一一三分! 
ガガーリンが人類初の宇宙飛行士として打ち上げられて帰還するまでの一〇八分を、ヒッチコック『ロープ』のごとくリアルタイムで描いた映画かと思っていたらそうではなかった。
ドキュメンタリー風でもなく、今流行りのPOV方式でもなく、打ち上げのその日の出来事をガガーリン自身の半生を回想を交えて描いた比較的オーソドックスな作りの映画だった。

ガガーリンの人間的な部分は断片的に伝わってくるけれども、彼が他の人よりどんな部分で抜きん出てどんな理由で選ばれたのかはあまりはっきりしなかった。

【映画】『王立宇宙軍 オネアミスの翼』

学生の頃、友だちに勧められて観たとき、ピンとこなかった。
今回観直してもやっぱりピンとこなかった。
だけれども単純に面白くない、と言ってしまうには言い切れない……変な噛み切れなさが口の中に残る。
作っている人たちの志の高さはわかるのだけれども、理屈が先に出すぎていて面白さがついてこられずにいる印象だ。

暗殺者から逃げるシークエンスは、メリハリがなく唐突に始まったり終わったりを繰り返す。
僕と映画の間で感情移入ポイントのズレのようなものがあり、それが違和感になって、主人公が逃げているシーンも、夢の中のように身体がうまく動かないもどかしいものとして伝わってくる。

映画全体に(おそらく意図的でない)夢の中のような浮遊感で満ちている。
意図の消化不足のせいだろうか……しかし今の基準から見てもじゅうぶん高い技術で作っている。
その高い技術力を持っても到達できなかった志の高さということか。

そこまでの志の高さに当時どこまで勝算があったのかわからないけれども、それでも戦いをいどむ姿勢に対しては凄みを感じる。

【映画】『惑星ソラリス』

原作は何度も読んでいたが、映画版を観るのは今回初めて。

調査のため惑星ソラリスへ訪れた主人公。
ソラリスの海は、人間が普段心の奥底に封印している思い出したくない記憶(に関わる人)を実体化させる作用がある。

主人公クリスは、一〇年前に自殺した妻と惑星基地で邂逅する。
思わぬ事態にうろたえ、現れた妻をロケットに詰め宇宙へ放逐してしまう。
しかし妻は再び同じように現れる。
クリスは、自分の過去におかした過ちと向き合うため、訪問者(ソラリスの作った人間)としてではなく、彼女を人間として(現実の妻として)向き合うことを選択する。
クリスの記憶だけの範囲でしか思考ができなかった妻は、彼との触れ合いの中で自我が目覚め人間に近づいていく。
そんな妻の辿り着いた答えは、皮肉なことに自らの死だった。
科学者仲間から妻の死を知らされ、主人公は落胆する。
そんな彼をねぎらうかのように、ソラリスは、主人公が捨てたはずの故郷を再生させる。
そして主人公は父に許しを請うようにひざまずく……

原作にあった、人類をはるかに越えた知性とのコミュニケーション的な要素はなくなり、ソラリスは人の思い出を具現化させる装置としてのみはたらいている。
それを深みがなくなったと捉えるかどうかは難しいところだ。

【映画】『オン・ザ・ロード』

膨大な量の原作を全てなぞることは不可能でエッセンスを取りだすしかないにしても、キャッチーな部分を抜粋しただけ過ぎる。
原作にあるニュアンス、過剰で混乱しきって焦りに背を押され輝きも一瞬でこぼれ落ち残る喪失感……が伝わってこない。
あの頃はワルだった、武勇伝的に美化された思い出。

ただしラストは良かった。
原作で冗長気味だった感情がシンプルに抽出されている。
ディーンがあこがれの対象から人間に堕ちていく……しかしディーンは最初からディーンで、特別の人でない。
主人公が変わったのだ。

【映画】『女ガンマン 皆殺しのメロディ』

冒頭でレイプされた(ラクエル・ウェルチ演じる)ハニーは、ポンチョを羽織るが上半身は裸、下はピチピチの革パンツ……という格好で旅に出る。
そんな随所のヘンテコ演出が、物語自体は綺麗にまとまった復讐譚なだけに印象に残る。
特にラスト、ハニーが危機に陥ったときに助けに来る謎の黒ずくめのガンマンは何なんだ?
そのあと説明がないまま唐突にエンディングを迎える……これは、キューブリック映画みたくあえて説明を抜くことで神秘性を増させる効果だろうか?

僕の中でアーネスト・ボーグナインは、何故かルイ・アームストロングと名前がごっちゃになる。

【映画】『8 1/2』

大槻ケンヂ氏の初期の詩の世界みたいだった。おそらく逆で、大槻ケンヂ氏が影響を受けていたのだろうけど。

映画作りに難航していて、現実と夢の世界を行き来するかのような主人公の混乱は伝わってくるが、正直、理解できたとは言いがたい。
直接的な表現を使わず隠喩で描かれるシーンが多いということもあるが、馴れない白黒の画面、区別がつきにくい西洋人の顔、覚える前に登場する新しい名前……物語世界に入るより前にそれらが障壁になって混乱に輪をかける。

主人公の愛人の腋毛がチョロリン!と見え隠れするのがエロかわいかった。

【映画】『ノア 約束の舟』

天啓とは、周囲に起こった出来事、白昼夢で見た映像を、自分なりに解釈すること。
何とノアの受けた天啓は「邪な人間を全て始末して動物だけを生き延びさせろ」。
方舟を作るとき、管理だけのためだけに必要最低限の人間(自分の家族)は生きながらえさせてもらっているだけで、それが終わると自ら滅ぶ運命……という解釈だったのだ。
それなのに子供がみごもっていることがわかったからさあ大変、ノアが刃物を手に赤子を抱えた娘を追いかけまわす『悪魔のいけにえ』な展開になる!

その独善たるやグリーンピースやシーシェパードを彷彿とさせる。
しかし、この映画で描かれているノアの箱舟は、天使(ウォッチャー)と神の奇跡によって作られたわけで、ノアの家族こそ何もしていない。
では何故ノアの家族が選ばれたのか?
それはひとえにカインの子孫より神を信じている(信心深い)からだろう。
聖書の中の神(ヤハヴェ)が天罰をくだされたとき……ソドムとゴモラ、最後の審判、ノアの方舟など……助けるものの優先順位は、神を信じているものが、善きことをしているものに優先される。
貢献度順ということだろうか……紅白歌合戦のようで、納得がいかない。

【映画】『そして父になる』

最近子供が生まれた友人が、酔って僕に絡み
「俺から言わせれば結婚もしてなくて子供の一人もいないお前はまだまだひよっこだよ!」
……そいつがものすごく嫌いになった。
そんな説教をする奴のどこが大人やねん! 
とそのとき思ったものだが、その友人がこの電気屋のお父さんそっくりなのだ。
貧乏だけど手作り感でカバーする、アットホームな家族という押し付けに……もう、うんざり。
(既成概念から踏み出していない「よきこと」)
こんなお父さんがいたら、僕なら確実に反抗期で大暴れだ。

距離を置いてくれる父親のほうがまだマシだ。
自分がわかっていないことが成長してわかるということは成長の余地が残っているということ。
大人(父)になりきれていない(福山雅治演じる)野々宮さんのお父さんにほうに、僕は強く感情移入できる。

しかしこの映画で描かれているように、この電気屋みたいな父親に子供が魅力を感じるということはリアリティのあること。
となると子供に「子供だまし」は有効なのだろう。

カツラは、大人は大騒ぎするけれども子供は意外とかぶっていることに気づかないものだ。