こんな本を読んだ!」カテゴリーアーカイブ

本を読むことはあまり得意じゃないのですが、頑張って読んでいます。
 
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【本】富安健一郎 上野拡覚 ヤップ・クン・ロン『ファンタジーの世界観を描く』

副題は「コンセプトアーティストが創るゲームの舞台、その発想と技法」

僕は絵を描くことに隣接した仕事をしているが、この本に書かれている直接的には関わりがない。
だからここで書かれていることがどの程度役に立つかはわからない。
しかしどういう仕事であれ、自分の仕事に引き寄せて考えることはできる。

世界観をつくることと、世界観を効果的に見せることは近いが遠くにある(逆説的に遠くにあるが近い)、ということを考えさせられる。
キャラクターの成り立ちや世界を考えることとイラストとして完成度を上げるための細かいテクニック。

漫画で言えば絵を描くこととストーリーを作ること。
絵の内容を考えることと描写すること。
この二つは絡みあうが場合によっては対立する。

どんな能力も単一では成り立たず、得意なことから放射線状に周囲に広がっていく。
それが物語からか絵からかあるいはその真ん中か、生まれつきの能力というものはまばらに飛び散った点のようなもので、努力や経験によって点のいくつかを円状に広げて、隣接する点を重ねていくことが才能なのだろう。

そうなってくるとアメコミやハリウッド映画みたいな完全分業体制ってどうなんだろう。
逆に堀井雄二氏など最初はプログラムから絵から全部一人で作っていた。

ものを作ることが、離れていること(場合によっては相反すること)を包有する(結びつける)ことなのだということに思いを馳せる。

【本】武者小路実篤『友情』

巻頭の自序に度肝を抜かれる。
著者自身がオチ書いてますやん!
『吾輩は猫である』で、この猫は最後に死ぬんですけどね……って書くようなものだ。

そして親友の大宮が同人誌に発表した内容にも仰天する。 
どう考えてもいやがらせではないか。
僕からすれば大宮は、いい人と思われたいためのアリバイをまき散らしている嫌なやつだ。
主人公のことを才能あるなんて思ってない。
才能も人格も見下してるんだ。
そして残念ながら……ほんとうに主人公はその程度の人間なのだろう。
自分だって

ヒロインの杉子を、僕の祖母と同じ世代の女性……と思い読んでいるとイメージ上の顔に祖母が重なってどんよりする。

久々にインパクトのある読み物だった。
武者小路実篤恐るべし!

【本】フェルディナント・フォン・シーラッハ『禁忌』

読み終わってキツネに包まれた上につままれたような気持ちになる。
ここで描かれている出来事はわかるけれども、登場人物がどうしてそうしようとしたのかが理解(感情移入)できない。
はっきり書かないからこその価値だと思うのだが、
登場人物の立場を自分に置き換えて想像しようとしても、登場人物のその想定されうる考えていることがあまりに自分と価値観が違いすぎて想像できない。
第一章までは面白かったのだけれども…………………………

芸術家である主人公が、芸術系大学に七年在籍していた自分と共通項が多いがあまり、微差に必要以上の違和感を感じてしまうということだろうか。
日本と韓国の関係のように。
(そんなたいしたもんじゃないよ!)

【本】出口治明『本の「使い方」』

出口氏は読書に対価を求める功利主義的なものを否定し、読書を楽しみとしてあるいは「毒」として定義するが、この本のタイトル自体がそうでないことの矛盾。
そもそもライフネット生命創業者としての出口氏のプロフィールを知っていたら、この本を手にとった人はまずこの本を読読書の楽しさを知ろうとするより、いかにして読書を仕事に(生活に)役立てるかということに重きが置かれるだろう。

出口氏はビジネス書に否定的で、成功者が書いている結果論だからよくないとのこと。
でもこの本を読む人は出口氏という成功者がどういう風に本を読んできて血肉にしたのかの片鱗を知ろうとするわけで……
う〜ん、アンビバレンツ!

純粋に面白い本を紹介するだけだと売れないから功利主義(実利主義)的なものは必要だろうけれども、その要素が強ければ強いほど純粋な読書人は鼻白む。
バランスが難しいけれども、おそらく純粋な読書人のほうが少ないだろうからビジネス的にはこれが正しい。

ビジネスとは関係なく著者が純粋に面白いと感じた本の紹介がいちばん興味深い。
できるかぎりメモして読むことにする。

【本】ジョン・ウィリアムズ『ストーナー』

ずっと涙が止まらない。
これは文学的感動なのだろうか? 
この本は人生を追体験させる装置のように作動している。

この涙の量は人生に比例すると思う。
一〇年前に読んでもそれなりに感動しただろうけれども、絶対に今ほどでない。
僕のような空虚な人間であっても降り積もる時間と経験の重みがあるはずで、この小説はきわめてたくみに切り取って目の前につきつける。

主人公の人生の経験を、都度の自分に当てはめ思いを馳せる。
人生には悲しみがある。でも逃れることはできない、生きていくしかない。諦観とほのかな希望。

【本】成毛眞『本棚にもルールがある』

意外と重なっている部分が僕にもある。
著者の推奨している資料棚と進行中棚と見せ棚は便宜上以前より作っていた。

けっこう断定口調でクセが強い。
いわく仕事の本は本棚に入れない。
いわく本棚にフィクションや漫画は入れない。
一番びっくりしたのは「「サイエンス」「歴史」「経済」の入っていない棚は、社会人として作ってはいけない」
う〜ん、余計なお世話!

ただし著者の熱意は暑苦しいまでに伝わってくる。
この本を読んで何もリアクションをしない人は、本に対して自信のある人かよほど興味のない人だろう。

【本】ロジャー・ゼラズニイ『光の王』

もっとファンタジーかと思っていたら思ったよりSFしていた。
神々の命の雑な扱い方がその世界の価値観を提示していて面白い、これぞセンス・オブ・ワンダー! 
エンタメ要素(格闘技や戦争)を挟んでいて読んでいて飽きさせない。
読み終わった後も、壮大なスケールと物語世界に思いを馳せている。
キャラクターが魅力的。漫画的だが哲学もある。ハッタリがとにかくうまい。
ゼラズニイ氏は先天的な(生得の)物語る人だったんだろうな。

【本】ロジャー・ゼラズニイ『伝道の書に捧げる薔薇』

物語自体は古い……というよりもオーソドックスなものだが、その物語を飛躍/深化させるための、実に効果的なセンス・オブ・ワンダーが、絶妙なバランスで混ざり合っている。
寺沢武一氏がよく言う「新しい皮袋につめた古いぶどう酒」はゼラズニイ氏がまさしく体現していること。
(ちなみにこのことわざ、ルカによる福音書「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」が元ネタのようで……新しいぶどう酒を古い革袋に入れたら発酵するとき皮袋が破裂して駄目になるから、新しいぶどう酒は新しい皮袋にちゃんと入れましょう……という意味だった!)
たとえば表題作は火星というSFでは使い古された(陳腐な)設定なのだが、今までのSFで扱われなかった伝道書というガジェットがアクロバティックな作話術によって紡がれると、手術台の上のこうもり傘とミシンの出会いのように美しい。
そして

星野之宣氏も『ベムハンター・ソード』や『二〇〇一夜物語』であきらかに影響を受けている短編がある。
八〇年代以降は忘れ去られた感のあるゼラズニイが、八〇年代以降も影響を受けたクリエイターに繰り返し引用されていたことを、この短篇集で知る。

【本】エドガー・アラン・ポー『モルグ街の殺人・黄金虫』

夏目漱石が作った当て字の「ロマン」が「浪漫」で広まったように
「二葉亭四迷」から生まれた「くたばってしまえ!」、
そして「エドガー・アラン・ポー」から生まれた「江戸川乱歩」。

ポーは、僕の好きな小説ジャンル「奇妙な味」の元祖の作家。
幻想と論理のはざまの作家であるが、この短篇集の収録作は僕の(比較的)好きでないほうの論理/ロジック寄り。

推理、暗号、密室殺人、探偵モノ……ミステリ小説の原型がここにある。
ミステリと言っても問題解決は後出しジャンケン、読者が謎解きを楽しむことができるタイプのものではない。
しかし全体的にオチにむかって収束(ドンデン返し)していく物語作りがされており、一九世紀前半にして物語の快感というものを自覚していることに驚く。

ある人にとっての悲劇は他の人にとっての喜劇で、この短篇集の底辺には恐怖の裏側にある「黒い笑い」に満ちている。
「ホップフロッグ」のラストが典型的なそれだし、
「盗まれた手紙」の警視総監から金を巻き上げるところ、
「おまえが犯人だ!」の腹話術、
物語のその場にいる人は笑えないが、引いた視点で笑いになっている。
これこそ「奇妙な味」の元祖たる所以。

【本】ロジャー・ゼラズニイ『ロードマークス』

道路の傍らに立つアドルフという名のチョビ髭のドイツ人(!)に
「この先でお前がトラックで事故を起こして死んでいるのを見た」
と告げられるところから物語は始まる。
その道路を走っていると時間が正常に流れないようだ。
レストランで
「前はもっと歳をとっていた」
と言われる主人公。息子までが登場する。
はては十字軍時代の老人やティラノサウルスを操るサド侯爵、果ては宇宙人に作られた殺戮ロボット、無敵の殺人兵士などが現れる。そしてその道路を支配するのはドラゴン。
かように混沌としたガジェットが乱暴に放り投げ出された世界を、幾つもの平行して物語が流れる。
通常の物語作法で進んでいかないので混乱するばかり。

手に取るとツルンと逃げていく不思議な感触を持った小説。
(なのに不思議な魅力がある)

【本】ドミニク・オブライエン『記憶に自信のなかった私が世界記憶力選手権で8回優勝した最強のテクニック』

これだけの記憶力を持っている著者も学習障害に悩まされたらしい。
人の話していることが頭に入りにくかったという。
僕も同じ症状だったからわかる。
学校でも先生の言葉が頭に入らず授業中に集中できなかった。
黒板やプリントなど文章化あるいは図解化した情報は頭に入りやすかったのだけれど、リアルタイムで流れる情報を頭の中で整理する方法がなかったのだ。
エピソード記憶によって覚える方法でそれを克服したとのこと。
最近記憶について調べて自分の足りない部分を強化するために読んだのだが、思いのほか役に立ちそうだ。

【本】 ケン・リュウ『紙の動物園』

アメリカのアジア人作家という意味では現代的だが、内容的には懐かしい雰囲気のセンス・オブ・ワンダー。
東洋的な部分と西洋的な部分が混じりあいそうで混じりあっておらず、一部対立しているところが興味深い。

主人公があくまでストイック。
ドラえもんで言えばのび太が主人公でない、出来杉君やしずかちゃんが主人公のような、広がらない物語が多い。
例えば表題作「紙の動物園」、主人公は生きている折り紙を使って調子に乗ることはない。
利用したり喜んだりしない。
センス・オブ・ワンダーな遊びに主人公はあくまで禁欲的な態度で接するのだ。

(いくつかの例外があるが)基本はそういうテイストの物語が多くて、そこが僕には不満だった。
もっと弾けてもいいじゃないか。
自由に物語が飛躍しない。
後天的に物語り始めた優等生が書いたSF小説のような印象。

【本】宮部みゆき『ソロモンの偽証 第III部 法廷』

『ソロモンの偽証』全部で二一〇〇ページ! 
宮部みゆき氏の筆力の凄まじさと問題点が同じぐらいあらわれている問題作。

内容に比してあまりにも長過ぎる。
それなりに速読できる僕でも一気読みできないので寸断された時間で読まざるを得なく、時間がかかる。
スピードが上がらず一巻につき七時間、他の本を平行して読んでいるので一週間に一巻しか読めず、読了に三週間が必要だった。
普通のスピードで読む人ならその倍はかかるのではないか。
逆に言えば、ゲームやテレビやSNSなど他に娯楽が多い現代人に時間をかけて本を読ませるのだから、宮部氏の筆力のなせる技か。

登場人物が(中学生なのに)頭が良すぎたり、頭が悪すぎたり……小説のキャラクターというより漫画のキャラクターっぽくて現実味が少ない。
学校裁判という設定自体が現実離れしているために描くリアリティラインを意図的に下げて生じた事象?

事件の真相に関わることが比較的早い段階からの予想の範囲内。
それが現実味を持たせ且つ物語的にドラマチックな展開という意味ではじゅうぶん面白いが、二一〇〇ページというページ数で無駄にハードルを上げてしまった。
これで納得するかしないかはどのぐらいラストに期待しているかに比例すると思う。
僕は期待しすぎた。
これと同じことが『ソロモンの偽証』とほぼ同時進行でプレイしていたドラクエ7にも言え……前作から時間が経って発売された、売れっ子の大作が陥りやすいことなのかもしれない。

最後までソロモンが出てこなかった。
そう言えば『ブラックジャックによろしく』にもブラックジャックが出てこなかった。
逆に『ブッキラによろしく』にはブッキラが出てきたし『ジョー・ブラックをよろしく』にはジョー・ブラックが出てきたし『よろしくメカドック』にはメカドックが出てきたのに。

【本】宮部みゆき『ソロモンの偽証: 第II部 決意』

何が偽証なのか、物語の肝になる言葉に一四〇〇ページ読んでもまだ到達しない。
少なくともどういう部分が物語(事件でなく)の焦点なのかもう少し絞ってもよかったのではないかという気がする。
自殺/他殺された少年の真相を調べる……ということは、確かに学校レベルなら大事件だが、大人が長時間かけて読む小説としては推進力が弱い。
第I部で『カラマーゾフの兄弟』を想像したが、第II部に限って言うと『カラマーゾフの兄弟』ほど普遍性がない。
自分や自分の周囲にいる人が抱えている問題とずれたところに登場人物がいるから、ちょっと引いて見てしまう。
宮部みゆき氏というブランドがなかったらおっつかっつ読んでいなかったかもしれない。

【本】グレッグ・イーガン『白熱光』

何度もイーガンを読もうとして挫折した挙句、満を持しての初読了イーガン!。
難しい! 
この手の厚さの本なら三〜四時間で読破かな〜と思って手に取ってみたものの、読み終わるまで一〇時間以上かかってしまう。
国語力の問題でなく細部が理解できないことがもどかしい。

あとがきで作者自身がこの『白熱光』を読んだ人に共通の誤読があると四つあげていたが、多くの人がそう誤読してしまうのなら、書き手の問題もあるのではないか?

(SFをかなり読んできたのが)自分がジャンル小説としてのSFが苦手だということを実感する。
要素としてセンス・オブ・ワンダー要素が入っていると楽しめるが、純度の高いSF小説は読んでいて楽しさより苦痛が勝つ。
(自分はSFを好きだと思って読んできたけど、雰囲気が好きなだけで本当はもっと自分に合うものが他にあって、SFに傾けた自分の時間は無駄だったかもしれない)
好きとか嫌いは恋愛や宗教と同じなので、何がスイッチになっていきなり好悪が逆になるかわからない。

……………………

(15年06月10日付記)
上記のようなことを読了後つらつら思っていたのだが、時間が経ってもう一度考えてみると自分が好きなものは極端なモノや変なモノ。

論理と感情で、感情が勝ってしまい『白熱光』を受け入れなかった自分だが、逆に論理で考えるとこんな偏った小説は滅多にない。
自分はこんな「変な」小説と出会ったことを素直に喜ぶべきではなかったのか。
歴史に詳しくないとわかりにくい小説もあれば、文学的に高度な小説もあるだろうし、人の機微に長けていないと理解できない小説もある。
数学や物理学や天文学に精通していないと理解が難しい小説もまた「アリ」だ。

ということで三週間経って、自分の中で『白熱光』の評価が高まっている。

【本】宮部みゆき『ソロモンの偽証 第I部 事件』

読み始めてエンジンがかかるまで二週間かかった。
この手の本はエンジンがかかると一時間で二〇〇ページ近く読み進められるのに。

ものすごくゆっくりと物語時間が進む。
このまま宮部みゆき氏が定向進化していったら『カラマーゾフの兄弟』なんか目じゃないボリュームなものを完成させそうな気がする。
(『カラマーゾフの兄弟』自体もよく考えるとこの小説と同じくらいドメスチックな事件を扱っているし)
七〇〇ページ以上かけて物語のさわりにしか到達していない、というあたりも似ている。