こんな本を読んだ!」カテゴリーアーカイブ

本を読むことはあまり得意じゃないのですが、頑張って読んでいます。
 
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【本】野崎まど『野崎まど劇場(笑)』

『野崎まど劇場』野崎まどhttp://matsudanozomu.com/?p=13483の続刊。

登場人物が重なった連作短編でもなく、ジャンル小説(SFやミステリ)でもなく、「独創的な」短編を集めるという縛りならこれ以上のものを作ることは困難。
だがその困難さに見合うだけの評価を得られにくいという茨の道を、野崎氏は進んでいる。
いや、自ら茨の道を作っているとでも言うべきか。
打率が高い。
全部が全部ヒット性のあたりとは言わないが、むしろこれだけ方向性の違う方へ打ち続けること自体がすごい。

最後の方は小説の形でない、もう漫画とか一コマ漫画と言っていいレベルのものまで収録されている。
ネタ切れ?
いや、新しい領域にまで達したと考えるべきだろう。

個人的には刺激的な短篇集だった。
ずっと悩んでいた僕の方向性の道標になるかもしれない、一筋の光。

【本】スタニスワフ・レム『泰平ヨンの回想記』

ここ数日、あと一〇〇ページを切っているところでページをめくる手がにぶっている。
決してつまらなくはなくむしろ知的好奇心をくすぐる内容で、こんなことよく考えるな〜とは感心はするのだが、肝心の文章や物語の波長が僕に合わないようだ。
中断を繰り返しながら最後は飛ばし読み、鼻をつまみノドの奥に流し込むように読了。

同じ短篇集の『泰平ヨンの航星日記』http://matsudanozomu.com/?p=15630に比べ思考を追うものが多くなっていて、物語がない(ほぼエピソードだけの)ものまである。
しかし抽象度が高いからつまらなくなったということはなく、『泰平ヨンの航星日記』と面白さの打率は変わらない。
ページ数が半分くらいな分だけボリューム不足感はあるが。

あと、地球が舞台という違いがあるが、『泰平ヨンの航星日記』にも地球が舞台の物語があるし、この短篇集にはさほど地球の固有名詞も出てこないし地方色もない。
そこは大きな違いはない。

泰平ヨンが科学者に会いに行き/科学者が会いに来て、ビックリする事実を知り、その事実を引きずりつつ日常に戻る……このパターンが多い。
思考の飛躍(センス・オブ・ワンダー)を物語化するため科学者が必要なのだろうか?
いま読んでみるとそんな疑問がわいてくる。

メカや宇宙人などわかりやすいSF的ガジェットが必要だった時代なのだろうか?
あるいは東欧諸国ならではのSF小説のルール?
今なら日常と非日常をジョイントするために、こんなあからさまなSF的ガジェット使わない。
でも当時だってニュー・ウェーブ (SF) の動きがあったわけで……
研究者だったレム氏が、思考を一番手っ取り早く物語化できる手段が科学者を使うことだったのだろうか。

【本】トニー・ブザン『記憶の法則』

二五年前の書籍だが、すでに古典的な風格すらある元祖記憶術の指南書。
この書籍が出版されてからずいぶん記憶法も進化したようで、いま主流である場所を使って覚えるロキ(ジャーニー)法は含まれていない。
数字をまとめて覚える方法(数字変換法)もあまり洗練されていない。
しかし、記憶は脳の性質に大きな個人差があるため、メモ術や勉強法同様これをマスターすれば完璧というような万能の方法はない。
雑多な方面にまで網羅されているので、基本に戻って自分に合うシステムを探すには有用だろう。

記憶法の本を他に読んだことがあるなら、読めば理解がより深まるのではないか。
僕にとっては、記憶法がどう発展していったか知るうえで興味深い書籍だった。

【本】宇都出雅巳『「1分スピード記憶」勉強法』

いくつかの記憶法をハイブリッドしてわかりやすくトピック分けされた、サプリメントのような勉強術。
世の中には理屈(思考の道筋)を追うことが好きでなく結論だけ読みたい人もいるみたいなので、そういう人にはちょうどいいのではないか。
僕は経験上、バックグラウンドにある理論を納得しないとメソッドを実践するかどうかで躊躇するので、最小限しかない本書は少し物足りなかったりする。

僕ぐらいの中途半端なポジションでなく、自分なりの記憶法が確立している人ならサブテキストとして活用することができるかもしれない。

【本】トルーマン・カポーティ『冷血』

取材している主体(作者)が登場しない。
インタビューできない登場人物(被害者・死人)の心情を作者が代弁する。
前後の状況は克明に描かれるのに、肝心の犯行シーンは間接的な描写(証言や裁判で描かれたもの)のみ。

ノンフィクション小説として読んでみると不思議なつくり。
ドキュメンタリーで言うと再現ドラマの範疇だ。
そういう事件や歴史物の再現されたものでも、最近テレビで放映されているものは前後にインタビューを挿入したりして真実味を担保することが多い。

「当日の被害者の気持ちを何でお前が知っているんだよ!」
しかし、そもそも事実を正確に再現することはできない。
インタビューならば、された人のとした側の主観が入る。
当事者が書くと書き手の主観が入る。
完璧な資料があったとしてもそれを取捨選択することで主観が入ってしまう。

この小説のリアルさは、取材を通して知った事実をふまえるとこう考えるであろうことが最大公約数として導かれる、というレベルのリアルさなのだろう。
(大きな誤差はないだろうということ)
この誤差があるから真実でないと捉えるか、積み重ねられた事実を蓄積して作られたいちばん事実に近い真実と捉えるかは、それこそ考え方次第だ。

【本】井ノ口馨『記憶をあやつる』

でも脳科学はやっとアメフラシやハツカネズミの頭のなかがうっすらとわかった程度。
それから二〇年後の未来の人工知能なんてたかが知れすぎている……

スリリングな思考実験を提供してくれる書籍だが、腑には落ちることがない。
消化できずにノドに挟まったままのような読後感。

『ゼンデギ』と関連して思ったこと。
キャラクターは、作り手が観客に向けての共同幻想を介したローカルな人工知能のbot。
同人誌や二次創作でbotが作り手の手を離れて動き出す。

宗教そして神こそ共同幻想のbotの最たるもの。
聖書や預言者を介して神は言葉を伝える。
人工知能が神になる短編を星新一氏は書いていたが、共同幻想が本当の神を作ることもあるかもしれない。
(三浦建太郎氏の『ベルセルク』はそういう設定?)

【本】グレッグ・イーガン『ゼンデギ』

先日読んだ同じイーガン氏の『白熱光』に比べると、これはだいぶ普通の小説で肩透かし。
普通に起承転結がある、構成がさほどトリッキーでない。
しかしイーガン氏はやはり一筋縄でいかない。

舞台は二〇年後のイラン。
癌に侵された主人公が死ぬ前に自分の思考をコンピューターにアップロードする。
ヨーロッパのジャーナリストだった主人公は友達(死後、子供を引き取ろうと言ってくれた)のイラン人の倫理観が信用出来ない。
そこでアップロードされた自分の人格(人工知能)に、子供を教育させようと考える。

SF系の読書会に参加するとこの小説に対して肯定的な意見が多かったので驚愕。
善意の友達を信用できず自分の分身を作ろうとするこの小説の主人公に僕はとうてい感情移入できない。
そもそも、その行為自体が倫理的にダメではないか。

今から毛が生えたレベルの人工知能って、高度なbotにしか過ぎない。
最適な言葉を選んで言うだけで、人間のような思考ルーチンはない。
外から見て人間と変わらないリアクションをとる、というだけで魂のない存在に倫理観を託すぐらいなら、元ジャーナリストなんだから口述筆記(Siriのようなものも相当発達しているだろう)で言葉を残せばいいじゃないか。
SF的設定にするために無理に作ったプロットのような気がしてならない。

【本】井ノ口馨『記憶をあやつる』

最近僕は脳の可塑性について興味があって、その脳の中の記憶についての書籍。
この数十年、脳内ビッグバンといってもいいぐらいの脳に関する学問が進化しているとのこと。
大脳生理学では追いつかず、分子生物学や遺伝学などいろんな隣接する化学を統合したニューロサイエンスという学問が登場したとか。
これから人工知能のようなものが作られるなら量子力学までが必要になるかもしれない。
まるでヴァン・ヴォクト『宇宙船ビーグル号』の主人公が総合科学(Nextialism)で宇宙怪物に立ち向かうみたいで、ワクワクする。
しかしまだ生まれたばかりのこの学問、記憶の固定や移動がハツカネズミやアメフラシを使った実験に終始していて人間の脳の段階に至るまで程遠い。

フィクション世界ではもうすぐ『ドラえもん』のアンキパンや『トータル・リコール』の時代がもうすぐ到来するというのに。

【本】トルーマン・カポーティ『ティファニーで朝食を』

この短篇集は、『冷血』に至る直前のカポーティ氏最後のイノセンスな輝き。
感覚的なところがあるので完全に意味を把握したとは言いがたいが、僕なりに楽しく読むことができた。

この短篇集は初期作品と『冷血』の橋渡しとなるもので、共通する要素を含んでいる。
カポーティ氏の小説に共通する要素……
田舎の閉塞感からここでない何処へ行きたくて辿り着いた都会で心を虚無に蝕まれる。
檻の外へ出たらまた新しい檻だった、そしていまの檻から過去の檻を懐かしんでいる。
表題作の『ティファニーで朝食を』にはそんな要素がまぎれもなく残っている。

しかし『ティファニーで朝食を』はそれだけではない。
それまでの自分の経験をもとに感覚的に描いた物語と異なり、ホリーのような実在の女性(他社の経験)を素材に使い、小説特有の大胆な飛躍をせず(小説技巧を制限)、実際にありそうなエピソードで構成されている。
文体もウェットものから、抑制した乾いたものへ。
カポーティは戦略的転換をはかったのだ。

長い活動期間に比して作品数が少ないのは、次第にカポーティ氏は手持ちのたまが少なくなっていったのだろう。
カポーティ氏は自在に物語を生み出すというより、体験/取材したことから作り上げるタイプだったのだ。
『ティファニーで朝食を』は小説(フィクション)の体をとっているが、それ以前の作品に比べるとはるかに現実に近い。
『冷血』の一歩手前といえるかもしれない。

『ティファニーで朝食を』は成功したが、さらにこの作品を越える素材を手に入れるため、陰惨な連続殺人事件を取材することになる。
連続犯に囚われ死刑に臨席し、『冷血』を完成させ、とうとうカポーティー氏は素材に飲み込まれてしまったのだ。

【本】マルコス・マテウ-メストレ『クライマックスまで誘い込む絵作りの秘訣』

その独特の論理展開に、アメコミと日本の漫画との違いを僕に考えさせるきっかけになった。

アメコミ作家でありアニメーターである氏のコミック……というより一枚絵の指南書。
日本のマンガと違いアメコミは線より形、白黒の面積が重要みたいだ。
白黒の面積比によって記される構図の分析は興味深い。

アメコミは一枚絵で動きを表現しない。
コマの組み合わせで動きを表現するが、決め絵(大ゴマ)だけを並べるので、コマ間の動きは読者が想像しなければならない。
直接的な動きは表現しない。

日本の漫画は一枚絵の中には動きを表現する。
スピード線を用いたり、人物/足/手を複数(ブラして)描くことにより動きを表現する。
その上でアニメのように大ゴマと大ゴマの動きも細かく描くから、アメコミと動きの表現は桁違いに多い。
逆に言えば、一般的に日本の漫画は一枚絵としての魅力はアメコミより低い。

この書籍はアメコミ表現を取り入れたい人には良書だろう。
静止した一枚絵や動きの前兆など(特定のシーン)の考え方は、あまり日本人にはない論理展開をする。
絵コンテ、挿絵、イラスト向けかもしれない。

【本】トルーマン・カポーティ『遠い声 遠い部屋』

ところどころ文意が混濁して(少年の内面を表している)わからなくなるが総意は理解できたと思う。
初期短篇集と同じく僕は『冷血』より断然こちらの作風のほうが好き。

父の自分への無関心と自分の執着、田舎に対する郷愁と恐怖……ノンフィクション小説である『冷血』にまで登場するモチーフが見え隠れする。
カポーティ氏は澱のようにこびりついた過去の自分を振り払うことができなかった。
見えない部分でずっとそれは残っていたのだ。
『冷血』でそのモチーフが殺人犯の人格として顕在化し、その凶暴さに飲み込まれていったように見える。

主人公がヒロインのアイダベルと幸せになる展開はなかったのだろうか。
彼女が送ってきた葉書を読み返すたび、僕の自分の奥底の少年とつながっている部分が鷲掴まれるように痛む。
ここでアイダベルに興味を失う主人公の姿がカポーティ氏自身と重なってならない。
(アイダベルには実在のモデルがいたという)
きっとアイダベルとそのまま添い遂げていたなら、カポーティ氏はこの小説を書いていないだろうし、そもそも田舎を出て都会で小説家になることはなかっただろう。
都会を夢見ながらも、少年の延長線(イノセンスを残したまま)に田舎で暮らしていただろう。

これは、彼女を失うことによって得た物語だ。

【本】佐藤優『読書の技法』

「功利主義者なので、無駄な読書はしない」という佐藤氏の言いようにのけぞる。
全て何かを得るためだけに本を読むって逆に難しすぎる。

この世界は何か目的があってデザインされたわけでないので、どんな行動をしても生きていく限り何処かしこに無駄が生じる。
睡眠時間も無駄だし、食事も無駄だし、服を着ることだって無駄……しかし人間は無駄そのものに楽しみを見出すことができる。
だから、佐藤氏の言う「無駄な読書はしない」は、自分にとっていま無駄に思えるものを読んでも結果的には役に立つこともあるので無駄な読書などない……そんな遠回りな言い回しかと僕は思った。

だが読み進めていくうちに、佐藤氏が目的以外の読書は結構真剣に無駄だと考えていることに気づく。
(その禁欲的な姿勢が修行僧を連想させ、佐藤氏がプロテスタント神学を学んでいたことの関連性を考える)
そういう無駄をしないための『読書の技法』なら、僕は根本的に佐藤氏と考えが噛み合わない。
僕が今まで携わってきた漫画は娯楽(無駄なこと)が目的で、直接的に人に役に立つことではない。
逆に言えば、完全に役に立たないことばかり作ることも難しい。

ということで功利的な目的半分、娯楽半分ほどほどなバランスでこの本を読む。
佐藤氏の勉強法など腑に落ちるところもあったので、この本から学ぶことにする。

【本】SSIブレインストラジーセンター (編集)『図解・マインドマップノート術』

この書籍で紹介された一〇年前(二〇〇五年)の勝間和代氏がちょっとアダルトな魅力なメガネ女子だった!
(鼻の穴横広がり女子なことは今と変わらず)

最近、発想法、メモ術の一つとしてマインドマップを使っているが(この文章もマインドマップでまとめた)、この書籍はその手のマインドマップ入門書の中では一番わかりやすい。

いろんな人が描いたマインドマップが載せているので、
どういうことを守ればいいか、
あるいはルールを厳守しなくてもマインドマップ的な思考をすればいい、
そんなことがわかった。

マインドマップはある方向に思考を展開していくことには優れているが、
文章を作ったり、ナナメの発想をジョイントすることには優れていない。
あくまで発想のきっかけ、補助ツールの一つ。
マインドマンプは万能でない。
マインドマップに縛られない考えかたもするということ前提でマインドマップを使わなければならない。
そもそもマインドマップは描いた本人以外には、どういう論理で展開していったのかつながりがわかりにくい。

この本はマインドマップを学ぶには良書。
(逆に言えばこの本の評価は、読んだ人がマインドマップをどの程度使いこなせるかで決まりそうだ。)