こんな本を読んだ!」カテゴリーアーカイブ

本を読むことはあまり得意じゃないのですが、頑張って読んでいます。
 
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【本】ドミニク・オブライエン『記憶に自信のなかった私が世界記憶力選手権で8回優勝した最強のテクニック』

これだけの記憶力を持っている著者も学習障害に悩まされたらしい。
人の話していることが頭に入りにくかったという。
僕も同じ症状だったからわかる。
学校でも先生の言葉が頭に入らず授業中に集中できなかった。
黒板やプリントなど文章化あるいは図解化した情報は頭に入りやすかったのだけれど、リアルタイムで流れる情報を頭の中で整理する方法がなかったのだ。
エピソード記憶によって覚える方法でそれを克服したとのこと。
最近記憶について調べて自分の足りない部分を強化するために読んだのだが、思いのほか役に立ちそうだ。

【本】ロジャー・ゼラズニイ『ロードマークス』

道路の傍らに立つアドルフという名のチョビ髭のドイツ人(!)に
「この先でお前がトラックで事故を起こして死んでいるのを見た」
と告げられるところから物語は始まる。
その道路を走っていると時間が正常に流れないようだ。
レストランで
「前はもっと歳をとっていた」
と言われる主人公。息子までが登場する。
はては十字軍時代の老人やティラノサウルスを操るサド侯爵、果ては宇宙人に作られた殺戮ロボット、無敵の殺人兵士などが現れる。そしてその道路を支配するのはドラゴン。
かように混沌としたガジェットが乱暴に放り投げ出された世界を、幾つもの平行して物語が流れる。
通常の物語作法で進んでいかないので混乱するばかり。

手に取るとツルンと逃げていく不思議な感触を持った小説。
(なのに不思議な魅力がある)

【本】エドガー・アラン・ポー『モルグ街の殺人・黄金虫』

夏目漱石が作った当て字の「ロマン」が「浪漫」で広まったように
「二葉亭四迷」から生まれた「くたばってしまえ!」、
そして「エドガー・アラン・ポー」から生まれた「江戸川乱歩」。

ポーは、僕の好きな小説ジャンル「奇妙な味」の元祖の作家。
幻想と論理のはざまの作家であるが、この短篇集の収録作は僕の(比較的)好きでないほうの論理/ロジック寄り。

推理、暗号、密室殺人、探偵モノ……ミステリ小説の原型がここにある。
ミステリと言っても問題解決は後出しジャンケン、読者が謎解きを楽しむことができるタイプのものではない。
しかし全体的にオチにむかって収束(ドンデン返し)していく物語作りがされており、一九世紀前半にして物語の快感というものを自覚していることに驚く。

ある人にとっての悲劇は他の人にとっての喜劇で、この短篇集の底辺には恐怖の裏側にある「黒い笑い」に満ちている。
「ホップフロッグ」のラストが典型的なそれだし、
「盗まれた手紙」の警視総監から金を巻き上げるところ、
「おまえが犯人だ!」の腹話術、
物語のその場にいる人は笑えないが、引いた視点で笑いになっている。
これこそ「奇妙な味」の元祖たる所以。

【本】ロジャー・ゼラズニイ『伝道の書に捧げる薔薇』

物語自体は古い……というよりもオーソドックスなものだが、その物語を飛躍/深化させるための、実に効果的なセンス・オブ・ワンダーが、絶妙なバランスで混ざり合っている。
寺沢武一氏がよく言う「新しい皮袋につめた古いぶどう酒」はゼラズニイ氏がまさしく体現していること。
(ちなみにこのことわざ、ルカによる福音書「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」が元ネタのようで……新しいぶどう酒を古い革袋に入れたら発酵するとき皮袋が破裂して駄目になるから、新しいぶどう酒は新しい皮袋にちゃんと入れましょう……という意味だった!)
たとえば表題作は火星というSFでは使い古された(陳腐な)設定なのだが、今までのSFで扱われなかった伝道書というガジェットがアクロバティックな作話術によって紡がれると、手術台の上のこうもり傘とミシンの出会いのように美しい。
そして

星野之宣氏も『ベムハンター・ソード』や『二〇〇一夜物語』であきらかに影響を受けている短編がある。
八〇年代以降は忘れ去られた感のあるゼラズニイが、八〇年代以降も影響を受けたクリエイターに繰り返し引用されていたことを、この短篇集で知る。

【本】ロジャー・ゼラズニイ『光の王』

もっとファンタジーかと思っていたら思ったよりSFしていた。
神々の命の雑な扱い方がその世界の価値観を提示していて面白い、これぞセンス・オブ・ワンダー! 
エンタメ要素(格闘技や戦争)を挟んでいて読んでいて飽きさせない。
読み終わった後も、壮大なスケールと物語世界に思いを馳せている。
キャラクターが魅力的。漫画的だが哲学もある。ハッタリがとにかくうまい。
ゼラズニイ氏は先天的な(生得の)物語る人だったんだろうな。

【本】成毛眞『本棚にもルールがある』

意外と重なっている部分が僕にもある。
著者の推奨している資料棚と進行中棚と見せ棚は便宜上以前より作っていた。

けっこう断定口調でクセが強い。
いわく仕事の本は本棚に入れない。
いわく本棚にフィクションや漫画は入れない。
一番びっくりしたのは「「サイエンス」「歴史」「経済」の入っていない棚は、社会人として作ってはいけない」
う〜ん、余計なお世話!

ただし著者の熱意は暑苦しいまでに伝わってくる。
この本を読んで何もリアクションをしない人は、本に対して自信のある人かよほど興味のない人だろう。

【本】ジョン・ウィリアムズ『ストーナー』

ずっと涙が止まらない。
これは文学的感動なのだろうか? 
この本は人生を追体験させる装置のように作動している。

この涙の量は人生に比例すると思う。
一〇年前に読んでもそれなりに感動しただろうけれども、絶対に今ほどでない。
僕のような空虚な人間であっても降り積もる時間と経験の重みがあるはずで、この小説はきわめてたくみに切り取って目の前につきつける。

主人公の人生の経験を、都度の自分に当てはめ思いを馳せる。
人生には悲しみがある。でも逃れることはできない、生きていくしかない。諦観とほのかな希望。

【本】出口治明『本の「使い方」』

出口氏は読書に対価を求める功利主義的なものを否定し、読書を楽しみとしてあるいは「毒」として定義するが、この本のタイトル自体がそうでないことの矛盾。
そもそもライフネット生命創業者としての出口氏のプロフィールを知っていたら、この本を手にとった人はまずこの本を読読書の楽しさを知ろうとするより、いかにして読書を仕事に(生活に)役立てるかということに重きが置かれるだろう。

出口氏はビジネス書に否定的で、成功者が書いている結果論だからよくないとのこと。
でもこの本を読む人は出口氏という成功者がどういう風に本を読んできて血肉にしたのかの片鱗を知ろうとするわけで……
う〜ん、アンビバレンツ!

純粋に面白い本を紹介するだけだと売れないから功利主義(実利主義)的なものは必要だろうけれども、その要素が強ければ強いほど純粋な読書人は鼻白む。
バランスが難しいけれども、おそらく純粋な読書人のほうが少ないだろうからビジネス的にはこれが正しい。

ビジネスとは関係なく著者が純粋に面白いと感じた本の紹介がいちばん興味深い。
できるかぎりメモして読むことにする。

【本】フェルディナント・フォン・シーラッハ『禁忌』

読み終わってキツネに包まれた上につままれたような気持ちになる。
ここで描かれている出来事はわかるけれども、登場人物がどうしてそうしようとしたのかが理解(感情移入)できない。
はっきり書かないからこその価値だと思うのだが、
登場人物の立場を自分に置き換えて想像しようとしても、登場人物のその想定されうる考えていることがあまりに自分と価値観が違いすぎて想像できない。
第一章までは面白かったのだけれども…………………………

芸術家である主人公が、芸術系大学に七年在籍していた自分と共通項が多いがあまり、微差に必要以上の違和感を感じてしまうということだろうか。
日本と韓国の関係のように。
(そんなたいしたもんじゃないよ!)

【本】武者小路実篤『友情』

巻頭の自序に度肝を抜かれる。
著者自身がオチ書いてますやん!
『吾輩は猫である』で、この猫は最後に死ぬんですけどね……って書くようなものだ。

そして親友の大宮が同人誌に発表した内容にも仰天する。 
どう考えてもいやがらせではないか。
僕からすれば大宮は、いい人と思われたいためのアリバイをまき散らしている嫌なやつだ。
主人公のことを才能あるなんて思ってない。
才能も人格も見下してるんだ。
そして残念ながら……ほんとうに主人公はその程度の人間なのだろう。
自分だって

ヒロインの杉子を、僕の祖母と同じ世代の女性……と思い読んでいるとイメージ上の顔に祖母が重なってどんよりする。

久々にインパクトのある読み物だった。
武者小路実篤恐るべし!

【本】富安健一郎 上野拡覚 ヤップ・クン・ロン『ファンタジーの世界観を描く』

副題は「コンセプトアーティストが創るゲームの舞台、その発想と技法」

僕は絵を描くことに隣接した仕事をしているが、この本に書かれている直接的には関わりがない。
だからここで書かれていることがどの程度役に立つかはわからない。
しかしどういう仕事であれ、自分の仕事に引き寄せて考えることはできる。

世界観をつくることと、世界観を効果的に見せることは近いが遠くにある(逆説的に遠くにあるが近い)、ということを考えさせられる。
キャラクターの成り立ちや世界を考えることとイラストとして完成度を上げるための細かいテクニック。

漫画で言えば絵を描くこととストーリーを作ること。
絵の内容を考えることと描写すること。
この二つは絡みあうが場合によっては対立する。

どんな能力も単一では成り立たず、得意なことから放射線状に周囲に広がっていく。
それが物語からか絵からかあるいはその真ん中か、生まれつきの能力というものはまばらに飛び散った点のようなもので、努力や経験によって点のいくつかを円状に広げて、隣接する点を重ねていくことが才能なのだろう。

そうなってくるとアメコミやハリウッド映画みたいな完全分業体制ってどうなんだろう。
逆に堀井雄二氏など最初はプログラムから絵から全部一人で作っていた。

ものを作ることが、離れていること(場合によっては相反すること)を包有する(結びつける)ことなのだということに思いを馳せる。

【本】オキシタケヒコ『波の手紙が響くとき』

個人的に初めてiPadを使って読んだ漫画以外の書籍。
新しいデバイスで読んだ内容にふさわしい新世代の力を感じさせる小説だった。

独立した短編の、伏線と感じなかったさりげないつながりが、ラストに向かって有機的に絡み合っていく構成のたくみさに舌を巻く。
音ひとつから始まった掌編が、プリオンから宇宙に至る極小から極限を行き来する怒涛の物語展開!
アクロバティックな想像力と事象を掘り下げる力、センス・オブ・ワンダーの新鮮さ……
音だけでこんな芳醇な物語世界を紡ぐことができるのなら、他のテーマならどうなるのだろう。
この人の次の作品をぜひ読んでみたい!

【本】スタニスワフ・レム『泰平ヨンの航星日記』

骨の折れる本だった。
五〇〇ページの小説をトータルで一〇時間、期間を一週間かけてようやく読了。
僕にとって通常の本の倍以上のペース。

「泰平ヨン」というヘンテコな名前から、小松左京『明日泥棒』に出てくるゴエモンみたいなものを想像していたら……思いがけず常識人、変な事件に巻き込まれてもあくまでツッコミを入れるだけ。
その世界の人達と必要以上に仲良くならない、あくまでも鑑賞者・傍観者としての役割だ。
家族や恋人など人間関係のバックグラウンドも極めて希薄。
もうちょっとキャラクターが立たせたり、目的を持たせてもよかったのではないかと思う。

短篇集なので一気読み出来なかったというせいもあるが(中断するたび設定を確認するため個々の短編冒頭からさかのぼって読み直し)、
基調は筒井康隆氏のようなスラップスティックなのにも関わらず、ギャグがエスカレーションするたびに膨大な文字数を使って説明するから、もう、面倒くさい。
単純にナンセンスで終わらせればいいことでもイチイチ理屈が入る。
理屈をこねること自体がナンセンスなのかもしれないけれども、僕にとっては面白い部分を相殺するいきおいで面倒くさいことが始まるから、事態が飛躍するたびに無意識に飛ばし読みしてしまう。
そして飛ばし読みしていたことに気づくとまた戻って読みなおす。
しかし油断しているとまた飛ばし読みする。
……そんな僕の無意識と意識の戦いが、この小説上で繰り広げられていた。

ナンセンスに理屈をつける/あるいは理屈をつけるていのナンセンス……を入れるのは、当時社会主義国家だったポーランドで発表された小説だからなのか。
(個人の楽しみのためのナンセンスは許されない!みたいな)
それともレム氏のくせなのだろうか。
レム氏に関しては今までシリアスな長編ばかり読んできた僕は非常に戸惑った。

ただ、この短篇集は、それら長編に匹敵するほどのスリリングな思考実験が入っていることには間違いなく、この本を読みきった自分を褒めてやりたいのと同時に今まで読んでこなかった自分を罵ってやりたい。

【本】スタニスワフ・レム『泰平ヨンの未来学会議』

前作【本】『泰平ヨンの航星日記』スタニスワフ・レムは短編集だから設定や面白さを優先にして泰平ヨンというキャラクターを意図的に薄く描いているのだろうと思ったが、長編である今作もよくわからなかった。
レム氏の描き方がそういうものなのだろう。

それでも長編だからかさすがに泰平ヨンに恋人らしきものができてもそれにしてもそっけなすぎる。
恋人より、知り合いの教授のほうが自分にとって(世界にとって)重要ということなんだろうか。

読んでいて筒井康隆『脱走と追跡のサンバ』、眉村卓『幻影の構成』などが頭に浮かぶ。
あるいは映画『MATRIX』、『インセプション』、『トータル・リコール』、『ビューティフル・ドリーマー』……現実と夢の境界線が曖昧な、悪夢のような世界でもがく主人公、現実を何度も飛び越えても見えてくるのは新しい夢世界。
スラップスティック・コメディ風に描かれた夢は、シリアスな悪夢よりも恐ろしい。