こんな映画を観た!」カテゴリーアーカイブ

映画の見方がわからない人が感想を書いています。ばんばんネタバレしていきますよ〜!
フェイバリット映画は『遊星からの物体X』。
時々アニメやドラマやドキュメンタリーの感想も入ります。
(特に記載がない場合はDVDでの鑑賞です)
 
このカテゴリーの目次はこちら→こんな映画を観た!

【映画】『魔人ドラキュラ』

黒いマントを羽織りいかにもな格好をして
「私はドラキュラ伯爵です」
と名乗っているのに、周囲は彼を怪しいと思わない。
そして事態がどんどん悪化、ドラキュラによる被害者が増えていく。

初代ゴジラの映画における、
老人「あれはゴジラかもしれん……」
若い女「まーた、おじいさんのいつものやつが始まった! そんな言い伝え本当にあるもんかよ」
という会話をいま観る違和感のような……もはや当たり前過ぎて疑うこともないほど一般名詞化した事象を皆が信じない光景は、わかっていても不思議。

【映画】『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』

タイトルにある「捕食」から『寄生獣』みたいなものかと思っていたらそうでもないようで、『ボディ・スナッチャー』のようなものかと思っていたらそれも違うようで、隠喩か実際の光景かよくわからない映像が続き、そして説明がないので戸惑うばかり。

おそらく『二〇〇一年宇宙の旅』のように本来理解できることを、意図的に説明を省くことによって難しくしている、ハッタリの一種なのではないか。

【映画】『デッドマン・ウォーキング』

一五年前に観たときも、すっきりしないぼんやりとした印象だったが、今回も同じ印象。

監督は死刑制度反対の立場らしい。
だからこの映画は「死刑囚がどんなに悪いやつだとしても、人の命を奪うこと(死刑)はよくないことだ」という作りなのだろうけど……死刑囚があまりにも悪いやつ過ぎて、どうしても被害者遺族側の視点でしか観ることができない。
死刑囚側に寄り添う主人公(シスター)のすることが空回りしていて感情移入できない。

彼のあそこまでの悪あがきをみていると、死を持って罪を償うこと以外に何ができるのだろうか。
実際、死の間際にしてようやく真実を語った(人間性を取り戻した)わけだし。
そこからの、死刑執行のシーンで「ようやく死んでくれた!」と僕がカタルシスを感じようとしたら、スカッとしない死に方。

やっぱりもやもやする。

【映画】『エスケイプ・フロム・トゥモロー』

前半の現実パートは面白かったのに、中盤からフェリーニ『 8½ 』のように現実と妄想の境界線が消え始めると途端に理解できなくなる。
僕は目がうつろになって、最後はぐにゃ〜っとなってしまう。
現実パートの続きをもっと理解できるかたちで観たかった。

【映画】『ポール・ヴァーホーヴェン/トリック』

ヴァーホーヴェン監督の新しい試み、筒井康隆『朝のガスパール』のように一シーンごとに観客が参加して物語の続きを作っていく。
前半はメイキングのドキュメンタリー、後半が本編。
本編はオープニング以降がアドリブで作られたにしては恐ろしく整合性があり、むしろ制限があったため奇抜な展開が出来なかったのではないかと思えるほど。

冒頭のドキュメンタリーでヴァーホーヴェン監督は
「(観客から送られてきた展開が)脚本の方向性を崩すような、マフィアが出てきたり家が爆発したりする展開ばかりで困る」
みたいなことを言っていたのだが、具体的にどんな風に困ってどう物語を修正していったのかこそ観たかった。
全部込みで八九分は短すぎる。
全編ドキュメンタリーでもよかったぐらいだ。
(むしろ完全版は特典で観るのでじゅうぶん)
ヴァーホーヴェン監督のDVDを好んで観るモノ好きならきっとそちらのほうが興味あることだろう。

【映画】『フライト・ゲーム』

フライト中の飛行機の中、乗り合わせた航空保安官のスマートホンに二〇分毎の殺人予告が入る……そんなミステリ仕立てで物語は進行するけれども、肝心の推理の雑なことと言ったら!
飛行機の乗客のうち誰が犯人であったとしても不思議でない程度の、とってつけたような犯人探し。
こういうゲームのような設定をいかすなら、映画としてただ単に犯人探しを観るだけなら自分には退屈で、『かまいたちの夜』みたいに物語の進行によってインタラクティブに犯人を探す展開のゲームのほうがまだ面白い。

【映画】『マライアと失われた秘宝の謎』

余韻の冷めやらぬうちに物語が次から次へと進行する。
それがあまりにも段取りっぽくて興ざめ。
映画版ハリーポッターは僕の中で無駄に長くて鈍重だったが、ポストハリーポッターと言われているこの作品の軽さを見るにつけ、あれはあれで正しい選択だったのかと思う。

この温度の低さだったら、シリーズの続編を作られることは難しいかもしれない。
「次回でまた会おう!」
と言って去っていった主人公の味方、あるいは捕まったままの主人公の両親は(続編が作られなかったら)物語世界でこのまま待ち続けるのだろうか。
僕が途中で放り出したFF10のキャラクターが、一〇年以上ダンジョンのセーブポイントの前で立ち尽くしているかのように。

【映画】『ナイトライダー』

スパイダーマンのようなヒーローものジャンル映画なのだが、主人公の能力は何と……空飛ぶ自動車に乗っているだけ!
シンプルでともすれば幼稚と思われかねないような設定なのに、シナリオが実によく練られている。
おそらく低予算映画と思われるのだが、アイデア次第でここまで面白くできるのか、と感動する。
主人公の倫理観の成長、主人公の思惑、悪者の思惑、いくつもの要素がレイヤー状に重なって協奏曲を奏でて、ラストは感動の大団円に!
思い切って物語のリアリティラインを下げて作られたからこそ、なのだろうか。

欲を言えば、ヒロインがもう少し深みがあればよかった。
お金になびくし、ヒーローにあこがれているし(すぐ騙される)、勉強できないし、あまりに俗物過ぎる。
貧乏な主人公(愛)を選択するとは到底思えないから、ラストの恋愛の成就がある意味いちばんリアルでない。

【映画】『ザ・イースト』

「ザ・イースト」というカルト集団であるテロ組織に潜入する主人公。
はたしてカルト集団に潜入して、自分の考えを保ったままでいることができるのだろうか。
僕の経験で言えば、政党や宗教に入った友達と話していると、どこまでが組織の意見でどこまでが相手の意見か聞いていてわからなくなる。
僕自身もどこかに所属しているわけでないが、とある事象に対して持っている自分の意見がそもそもどうしてそういう意見になったのか突き詰めて考えてくとわからなくなる。
考えて考えて先天的・後天的なものの要素を因数分解した先には結局、言語化できない好きこのみが残るだけだ。
その好きこのみを御旗に振りまわすことに躊躇してしまう。

そこまで考えない人が自分の気持を押し付ける強さを持っているとひそかに僕は思っている。

【映画】『悪魔は誰だ』

韓国映画でを観るときいつも思うこの違和感。
ハリウッド映画で考え方の違いに違和感を思うことは少ない。
人種の見栄えが離れているから文化の違いも受け入れやすいからだろうか。
しかしルックスが似ている同じアジア人の中国/香港映画でも違和感は少ない。
人間離れしたアクション、あるいは歴史の特殊さから、人種は同じだが別の世界だという認識があるからだろうか。

韓国はなまじ日本人とルックスが似ていて文化的にも共通項が多いから、少しずれた部分が余計に目立つということだろうか。
フロイトの言う「微差のナショナリズム」だ。
似ている同士は、自分のユニークさを強調するため小さな違いを強調する。
この心理が民族主義の対立を生み出すという。
同じ一神教から別れたユダヤ教、キリスト教、イスラム教の対立も同じ心理だ。

アイデア、プロットは文句なしに面白い。
韓国映画のレベルの高さを思い知る。

しかし、この映画の物語も韓国ならではの着地をする。
(違和感の正体は韓国特有の「恨」?)
これが日本からみると、感情論で物事を決める遵法意識の低さに見える。
韓国から裏返しに日本を見ると、情がなくて法律に振り回されているのだろう。

作品は、それぞれの社会システム(文化のハードル)に寄り添っていて、その中で自覚的であれ無自覚的であれ、越えることは困難。

【映画】『エイリアン バスターズ』

ショッキングな冒頭……コストコの警備員が宇宙人によって殺され皮を剥がれた死体で発見される。
そこからボディ・スナッチャーのような隣人の中身がすり替わっている恐怖モノに移行するかと思ったら、途中からその設定はほぼ忘れ去られてしまう。
じゃあ何のために彼の皮は剥がれたのだろうか?

それ以外にも、
スケボーで襲われた少年は?
なぜ退役軍人は皮を剥がれず内臓を食べられていたのか?
人間の皮を被った宇宙人が人間の女をセックスに誘ってどうする?
そもそも何のために宇宙人は地球を滅ぼそうとしているのか?
……などなどいろんな疑問が解決されずに物語は進んでいく。

さらに主要人物の一人が
「実は宇宙人だったが、人類愛に目覚めた」
とか言って最初の設定を忘れた頃に仲間になるのだが、そもそも宇宙人は人間を殺して皮を剥いで入れ替わってるのでは?
もともと、そいつの中に入っていた人間(死体)のことはスルーか!

確信犯でデタラメやっているのだろうし、そもそもこういう映画にそこまでの背景を求めても仕方がない。
この映画が面白かった人は「こりゃこういうもんだ!」と笑い飛ばせるぐらい映画を見慣れていているのだろう。
僕はまだまだ見慣れるほど映画を観ていないので、イマイチだった。
もっと映画鑑賞に精進しなければ……

【映画】『ホビット 決戦のゆくえ』:ユナイテッド・シネマとしまえんで鑑賞

第一作目からリアルタイムで劇場で鑑賞、ホビット最終作まで一三年間鑑賞した感想……特になし。
すごい戦争が起こっているけれども、最初から最後まで自分とは関係がない他人ごと。

映像は綺麗、アクションは興味深い、でもそれはプレステ(特に10)以降のFINAL FANTASYのごとく他人がプレイしているゲームのムービーをひたすら観ているだけみたいだ。
冗長な割に物足りない。

【映画】『恋する惑星』

思いが先走る若者の恋愛。先走りすぎて完全に気が狂っているとしか思えない。
今で言うとストーカー……というか当時でも家宅侵入罪だ。
文化の違いとかそういうレベルを超えて非常識。
それでも可愛いから許されるという現実。
こんな気違いみたいな女に滅茶苦茶に振り回されたいよ。

二〇年前の映画だけれども、僕と同世代の人たち(厳密に言うと少し歳上)が出ていて、それもそのはずぼくが大学生のときに公開された映画。
当時の雰囲気がほんのり香る。
これが公開された一九九四年の正月、僕は大学の研修旅行で初めてヨーロッパに旅行したんだっけ。
音楽の相乗作用もあり、強烈なノスタルジック(郷愁)を想起させられる。

【映画】『ジュリー&ジュリア』

平凡な公務員ジュリーがブログ日記を書いた……その内容は(料理研究家ジュリアの書いた)フランス料理レシピ本の五二四種類のメニューを一年かけて作りきることだった。
そのブログは話題になり取材が殺到、本を出版することになる
そんなジュリーのエピドードと、料理研究家ジュリアがそのフランスレシピ本をどうやって完成させたかというエピソードを平行して描く。

料理研究家ジュリアはそれまでなかったアメリカ向けフランス料理を一〇年もかけて完成させた。
ジュリーはただ単に本に書いてある料理を作っただけ。
なぞって作ることと、創作することを同じレベルに並べることに疑問。
(リスペクトのある描写があったとしても)
というか僕の感覚ではよくわからないのだけれども、本通りになぞって作ったことをブログに書くだけででベストセラー作家になって映画化されるってどういうこと?

【映画】『ドニー・ダーコ』

数年前に鑑賞、もう一度観てみたが前回同様やっぱり意味がよくわからなかった。
詳細にメモして時系列順に情報を並べていってもなお、ミッシングリンク(情報の穴)が大きい。
そもそもこの映画を理解するために必要な情報を監督がちゃんと語ってない。
しかし公開から一〇年以上経ってもこの映画がこれだけ高評価なのは、映画全体の見映え自体は抜群の完成度で、それが一種の担保となって、ちゃんと観れば理解できるように思わせているからだろう。

青春映画としてみると、まだ若かりし頃、自分とセックスと世界と終末が全て連動していた……そんな時代のことを思い出して甘酸っぱい気持ちになる。

【映画】『ナバロンの要塞』

六〇年台の映画は僕の中でアメリカン・ニューシネマ前の映画は今ひとつなのだけれども、これは珍しく楽しめた。
面白のツボを押さえている。
第二次大戦版ミッション:インポッシブルといった趣だ。

しかしニューシネマ前のこの時代、やはり死の描写にリアリティがない。
手榴弾を投げつけられると爆発からいったん飛んで避けてから倒れたり、崖から転落するときは手足をばたつかせず人形のような直陸不動の姿勢で落ちていったり、銃で撃たれても弾着が無かったり……
観念的なある種の様式(パターン)に沿っていて、リアルさを意識した演出が見られない。

【映画】『クイズ・ショウ』

年末に鑑賞した『普通の人々』に続き、二作目のロバート・レッドフォード監督映画。
今回も前作と同じく僕の中で煮え切らない印象。

セレブで世間知らずの大学講師がマスコミに乗せられクイズ回答者になる。
ちょっとしたきっかけでクイズのインチキに加担する。
その小さな過ちがマスコメディアによって手に負えないところまで大きくなる。
この人にも弱さがあったと思うけれども、人一倍弱かったというわけではない。
一般人なら誰でもおかしてしまいそうな過ちだ。
人間みな自分のなかの原則を曲げないように生きたいものだけれども、日々、妥協の繰り返しだ。
上司の言うことを聞かなければならないし、自分が正しいのに謝らなければならないもある。
自分らしさの基準をどこまで厳密に求めたらいいのか、難しい。
逆に、自分の正しさを押し通すため他人に犠牲を強いることもあるのだ。

先日、イスラム国に日本人人質が誘拐されて身代金を要求される事件が起こったが、ネットに起こった自己責任論の嵐に僕は驚いた。
他人の失敗に対してそこまで上から言うことなんて僕にはできない。
(過去、そういうことをしてきた自分を恥じる)

ネットユーザーがマスコミに倫理を求めてバッシングする事象……翻って自分たちはそこまでの純度で仕事に(あるいは他者に)接しているのだろうか。

こういう話に答えはなく、それぞれが持って帰って考えなければならないことだ。
一筋縄でいかないラストでスカッとすることなくずっと僕は悶々としている。

【映画】『引き裂かれたカーテン』

ヒッチコック映画をここ最近、積極的に観るようになった。
それまで人生の中のヒッチコック映画体験は大学時代に観た『鳥』だけ。

前半と後半で面白さの質が変わるが、それはそれで楽しい。
後半からの怒涛の逃走ハラハラ演出に腹を抱えて笑う。
バスを使った逃走中、巨大な荷物を持ったお婆さんが乗ってきたそのスローモーな動きがコントみたいだ。
船上の衣類カゴの中に隠れるのは大変だ……野ざらしで寒いしおしっこに行くことができない!

今まで観たヒッチコック映画の中で一番面白かった。
(七本しか観ていないけれど)

【映画】『シン・シティ 復讐の女神』:ユナイテッド・シネマとしまえんで鑑賞

僕が観た時は観客は二人だけ、贅沢な映画鑑賞のひととき。
去年、デビュー作『エル・マリアッチ』から始まって『マチェーテ・キルズ』までロドリゲス監督映画を集中的に観てきてようやく最新作に至る。

ロドリゲス監督映画はどことなくメタ感がある。
ジャンル映画の枠組み、お約束を踏襲(再構築)することによって生まれる可笑しみを自覚的に前に出す。
クウェンティン・タランティーノと似ているところもあるが、ずっとエンタメ。

一作目に比べると新しさはないが、このフォーマットの世界を堪能するだけでもじゅうぶん楽しい。
続編として普通に楽しめた。
閑散とした会場で、しかも一週間で早々に公開を終了してしまう(大ゴケした?)みたいだが、僕はじゅうぶん以上に面白かった。

【映画】『ゴーン・ガール』:ユナイテッド・シネマとしまえんで鑑賞

デヴィット・フィンチャー監督は大学のときの初監督作品『エイリアン3』を映画館に観に行って以来、それなりに追いかけて見ている。
(『エイリアン3』自体は評判はよくなかったけれども、僕は楽しめた)
『セブン』を観たときの鮮烈な印象は忘れることができない。
去年末、二〇年ぶりに『セブン』を鑑賞したが、やはり抜群に面白かった。
ピーディーな演出が全く古びていない。
むしろ、新鮮。

ということで話題の新作、この映画を鑑賞。
『セブン』とは打って変わって、スピーディーというより、いろんな要素を足していく演出に向かっている。

実際にあった失踪事件を元にした(再解釈した)ノンフィクションに近いものかと思っていたら、後半は寓話だった。
自分の中で作った思い込みと違う方向に話が進んだので、肩透かしを食らいもんどりうって倒れたような感じで混乱してしまう。
どこに着地するのか最後まで見当がつかない。
そしてラストのあまりに特殊過ぎる状況、自分及び周囲にあったことや一般的なことに置き換えることができず、茫然としている。
映画が終わっても、情報量が多すぎて余韻に浸るところでない。

デヴィット・フィンチャー監督はやっぱり一筋縄でいかない!

【映画】『スペースキャンプ』

今構想中の漫画の資料として購入、再鑑賞。
出来事と時間をチェックしながら、画面構図をスケッチしている。

作り手として観ると、主要キャラクターを全部活躍させた上、起承転結もあって、適度にハラハラさせて、友情ありラブロマンスあり、この設定を与えられて出した答えとしては合格点をはるかに超える佳作だと思う。
しかし観客としてみると、そもそもこの設定が面白いのかという疑問が湧いてくる。
冒険に巻き込まれるきっかけがコドモダマシだし、日常で起こったら大変なことはいえ、起こる出来事は大気圏の外側に出てすぐ戻るだけ。

あまりに限定された年齢層向け。
しかも対象年齢である子どもはもっと派手な娯楽を観たいわけでで……

【映画】『ブレーキ・ダウン』

数年前に鑑賞したのだけれども、ラスト以外一切覚えていなかった。
観ると徐々に思い出していき、中盤から完全に記憶が蘇ってきた。
リチャード・マシスン原作の映画『恐怖のレストラン』の失踪モノパターンの別回答を提示したものだ、ということは覚えていたのだが、どういうタイプの答だったのか完全に忘れていた……ことを思い出した。

悪人の小市民的な日常が見えることが興味深い。
主人公に向けられている悪い面だけでなく悪人にも日常があるわけで、その二面性が興味深い。
ただのサスペンス映画でない、奥行きが生まれている。

前回観たときも楽しめたが、今回さらに楽しむことができた。

 15年01月28日

【映画】『コン・エアー』

公開当時に観たときは典型的なハリウッド映画っぽく思っていた。
しかし去年、マイケル・ベイ監督映画を『バッドボーイズ 』から始まり『トランスフォーマー/ロストエイジ 』まで通して観たところ、単にハリウッド映画っぽいだけでない個性のようなものが見えてきた。

確かに一見、典型的なハリウッド映画っぽい印象を受ける。
それはベイ監督が映画の見映えに「っぽさ」を強調しているためなのだが、作品の中に常軌を逸したその「っぽさ」をぶちこむため、最終的には「っぽさ」が過剰にあふれ過ぎた別の何かになっている。
それはハリウッド映画のパロディのような、メタ化した似て非なるものだ。

そういうものが単に受けると思っている、ということもあるだろう。
しかし日本でビデオスルーされたベイ監督映画『ペイン&ゲイン 史上最低の一攫千金』を観ていると、そういうものが受ける状況の無意味さを笑うような高度な批評性も見え隠れする。
類型的なエピソードや演出を重ねることによってハリウッド映画の空疎さを強調している……にしては嬉々としてこういうものを作っているきらいもある。
ダイナミックな破壊シーンを作ることにもフェティッシュな関心があるのだろう。

『コン・エアー』のラストの盛り方と言ったら……一つ一つのエピソードはハリウッド映画の典型なのだけれども、それが集合するとここまで奇妙なものになるのか。
世間で思われているハリウッド映画「っぽさ」について考えさせてくれる。
(しかしベイ監督がただ単に天然で盛った映画を作る人という推測も捨てきれない)

意図を推し量ることはできない、強い個性の監督。

【映画】『ベイマックス』:ユナイテッド・シネマとしまえんで鑑賞

去年末、NHKのドキュメンタリー観たベイマックス』のメイキングを確認するという意味で鑑賞。
たしかによく出来ている。
細かい部分を観れば観るほどよく出来ている。

しかしこれは感覚の違いなのかもしれないが、エピソードの塊が大きくなるほど矛盾点や物足りない部分が見えてくる。
ブラシアップは全体から細部に向かって行われるわけで、その逆になればなるほどチェックは甘くなる。
大きなマスの修正は小回りがきかなくなる。
(細部を進行しているたくさんのクリエーターに影響が及ぶから)
さらに原作のレベルまで戻ると、主人公と主人公をサポートするヒーローキャラたちが活躍するぶんキャラクター全体の掘り下げが浅くなっている。
爆発事件と教授の行動の因果関係は微妙だし、悪い企業のトップは悪さも中途半端なうえそれ以外の面もなく何の感情移入もできない。
一人の作家が作っているわけでないので、論理が一貫しない。
整合性が最大公約数的なのものになっていく。

もっと完璧に近い作品を観ると思っていたが、圧倒的な部分とそうでない部分があって、僕は思ったよりも圧倒されなかった。
それでもこのレベルのものを量産できるシステムを作り上げたことはすごい。
多くの人々が作品作りに協力する姿に、民主主義の最終形態である(理想としての)共産主義を見た!
逆に、あきらかに共産主義思想の影響をうけているであろう日本のアニメ監督が独裁で作っていることの不思議……

【映画】『ポルターガイスト』

僕は子供の頃からスピルバーグ映画にあまり食指を動かされなかった。
子供が観るものというイメージ印象が強かったのだ(自分は子供のくせに)。
あまりにも物語が寓話的すぎて、リアリティを感じることが出来なかった。
最近やっと、そういう象徴的な物語の作り方として捉えることができるようになった。

『ポルターガイスト』はそんな自分が思っていた典型的なスピルバーグ映画だった。
まだ実際にありそうで怖かったのは、冒頭の、少女がテレビと会話するシーンだけ。
もうそれ以降は出来事が飛躍して物語世界に入り込むことができなかった。
椅子が勝手に移動する現象を面白がって遊ぶってどういう世界観なのか。
もう少し、日常のリアリティにクッションをかませてくれたらわかりやすかったのに……論理の飛躍がある。

あまりにも作りものっぽくて感情移入できず、ずっと外から観ているだけ。
遊園地のお化け屋敷に入るのはアトラクションとして楽しいかもしれないけれども、それを撮影した映像を観ても仕方がない!