こんな本を読んだ!」カテゴリーアーカイブ

本を読むことはあまり得意じゃないのですが、頑張って読んでいます。
 
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【本】『ソラリスの陽のもとに』スタニスワフ・レム

中学二年で初読以来、折に触れ何度も読み返している。
読み返すにつれ(人生を重ねるにつれ)、違う印象になっていく。
この小説で描かれていることに対し、感じ取れる深みが増していく。

初読時には、自殺した妻があらわれる描写はホラーとしてしか読まなかった。
今回読みなおしてその奥になる恐ろしさの深みを知る。
このこの シチュエーション
人が普段見たくなくて心の底に隠しているフラッシュバックが現実化するようなものだ。
忘れたくて普段心の蓋の底に沈めているものが、暴力的に追いかけてきて、地獄のようなシチュエーションだ。

ようやくトラウマと対峙し、受け入れようとしたらその刹那に消えてしまう、翻弄されるがままの主人公。

そもそも人間同士すら理解し合うことは難しいのに、人類が他の知的生命体と容易にコミュニケーションできるわけがない。
惑星ソラリスを(コミュニケーションできない相手だから)爆弾で消してしまえ、という意見が地球文明にあったとの描写、タリバンのバーミヤンの仏像破壊を思い起こさせる。
理解できないものを自分の価値観で推し量ろうとする傲慢さが、個人レベルから文明レベルにまで広がっていく。
それでもラスト、一片の希望を持って終わらせるところにレム氏の作家として人間としての良心を見る。

【本】『タイタンの妖女』カート・ヴォネガット

大学院在籍時(二五歳前後)以来の再読。

途方もないスケールのナンセンスSF。
半村良『妖星伝』のアメリカ版のような。
『妖星伝』はもがきながら生きる市井の人々に日本的な(仏教的な)優しさが向けられているように感じられたが、『タイタンの妖女』は(神からの天罰に対する恐怖のある)キリスト教的価値観がバックグラウンドにあるためかもっと容赦ない筆致だ。

運命と自由意志についての物語。
主人公のとっている行動が実は自由意志でなくコントロールされたもので、舞台が変わるたびさらに外側へマトリーショカのごとく、入れ子構造で主人公を操る存在が現れる。

僕も自分の意志だと思っているほとんどのことは、外側の何かによってコントロールされていると思う。
それは主に食欲と睡眠欲と性欲で、あとは高次元のはざまから僕を見守ってくださっている大暗黒陰神様に違いない。

【本】『中国嫁日記(1~2)』井上純一

エッセイ漫画だが、映画『ブッシュマン(コイサンマン)』のように、文明の衝突を描いたもの。

こういうことがある、という事象としては興味深いが、純粋に漫画としてはどう捉えたらいいのかわからない。
実際にこれがほんとうのことであったとしても、フィクションとして読んだら
「そんな都合いいことあるか!」
途端に漫画としてなりたたなくなってしまうかもしれない。
単行本の中でも嫁本人のコメントや写真をどこかしこに出すことによって、リアリティを担保しているのだ。

しかし萌え/キャラクター漫画として魅力あることもたしかで、考えてみれば小林よしのり『ゴーマニズム宣言』もこういうものだ。
そもそも純粋な漫画の魅力を僕は狭く捉えすぎているのかもしれない。
漫画の背景画を手描きにせず、写真・3Dデータを処理加工しただけで、
「漫画本来のよさがなくなっていく!」
と言い出すような老害にならないよう、自戒の意味を込め読み続けていこうと思う。

【本】『失われた宇宙の旅2001』アーサー・C・クラーク

『2001年宇宙の旅』の映画に合わせて作られたノベライズ版の様々な段階をつなぎあわせ、クラーク氏とキューブリック氏の思考の過程をみることができる書籍。

『2001年宇宙の旅』は映画としてはほぼ究極形の傑作だと思うが、小説版(物語として)は映画のバックグラウンドとしては興味深いけれども、歴史に残る傑作かどうかは疑問。
『幼年期の終わり』ほど思索の広がりがあるとは思えない。

しかし『2001年宇宙の旅』ラストのシークエンス、スターゲートを越えた以降の、この書籍に収録されているいくつかのバージョン、映画で描かれることのなかった一連のイメージが素晴らしい。
その片鱗だけで凡百のSF作品を蹴散らすほど。
クラーク氏の小説家として突出している部分である、その途方もない視覚イメージ力が、『2001年宇宙の旅』とその後のシリーズに縛られてしまい、浪費させられた。
クラーク氏のこの労力を小説に向けることができたら、他のたくさんの傑作が生まれたかもしれなかったのに……複雑な思いを抱く。

【本】『オン・ザ・ロード』ジャック・ケルアック

足掛け一〇日、一五時間以上かけて読了。
段落もなく、四〇〇ページぶっ通しの文章を読むことはかなり困難だった。
一冊の本では僕の人生の中で最も時間がかかった部類に入る。

地図帳を買ってきて横に開き地名を確認しながら風景を思い浮かべて読む。
ただの文字情報なのに、この本と点で接している自分の中に広がる記憶が、実際にあった出来事のように追体験させる。
逆に言うとこの小説に描かれていることも点だが、その奥に膨大な量の人生と世界が広がっているのだ。

僕も、主人公の憧れのニールのような友達がいたことを思い出す。
高校卒業後の彼との二人旅、どれだけ楽しかったことか。
旅の途中、僕に対する彼の態度が悪くなったときは、自分の不完全さ足りなさを呪った。
それから徐々に自分の憧れが幻想だということを気づいていくわけだが、それが決定的になったのは二〇〇八年末、東京に訪ねてきた彼に会ったとき。
何のときめきも感じなかった。
おそらく彼の中に自分の可能性を託していたからで、それが消えたということは、そのとき、三六歳にして僕の青春が終わったということだったのかもしれない。

【本】『昭和少年SF大図鑑』堀江あき子

もう昭和から二六年過ぎ一回転、こういう世界が逆に新鮮になってきた。
この数年、レトロフューチャーな憧れが高まるばかり。

ここに掲載されている書籍の表紙は、昭和四〇年台から五〇年台の書籍が多い図書館にずっと通っていたせいで、ほぼドンピシャ。
薄皮をぺろりとめくって、自分を形成した核を眺め見るようで、懐かしくすぐったい。
地元に帰ったら久々に図書館に寄って、書庫から出して読ませてもらおうかな。

この書籍に関してはフルカラーだったらもっとよかった。
電子書籍でフルカラーで大きな画像を見ることができたらもっとさらによいのに。

【本】『南シナ海 中国海洋覇権の野望』ロバート・D・カプラン

一九世紀末のカリブ海と、いまの南シナ海の似ているところ/似ていないところ……中国台頭によって変化した南シナ海の状況が、初心者の僕にもわかるようやさしく解説されている。

シンガポール、マレーシアが独裁ゆえに発展したこと。
悪い独裁者の見本だったフィリピンのマルコス政権。
人民を弾圧するが経済は発展させた中国共産党。
独裁からソフトランディングして民主主義に向かった台湾。
南アジアは独裁のいいところとわるいところを比較研究できるような場所のようで、その描写の中から著者の「西洋の民主主義信仰」への懐疑が散見できる。

あとがきでも触れられていたが、日本に対する興味の無さか、日本に対する記述が少なく、あっても反日的な(アメリカのリベラル派の典型的な主張を鵜呑み)記述になっているところが気になる。

シンガポールの独裁者リー・クアンユーの自伝を読んでみようと思う。

【本】『暴露:スノーデンが私に託したファイル』グレン・グリーンウォルド

米国家安全保障局(NSA)によるサイバースパイ行為を暴露したスノーデン氏。
年収二〇〇万ドルの仕事を投げ打ちアメリカを捨ててまで何故こういう行為をしたのか、彼の動機がはっきりとわからない。
政府の情報公開問題と戦い続けた反骨の著者グレン・グリーンウォルド氏は困惑している。

スノーデン氏は当初、ジョセフ・キャンベル『千の顔をもつ英雄』(リンク)の影響を挙げ、神話に慣れ親しんだ自分が人間として取るべき行為を考えて……と語っていたが、グリーンウォルド氏がそこでもうひと突っ込みすると、実はゲームの影響だと白状する。
自分の力だけで敵に挑んでいく姿勢、正義感……ゲームが描いている思想/物語のバックグラウンドにある『千の顔をもつ英雄』にスノーデン氏は共感したとのこと。
スノーデン氏は日本語を学びNSA在籍時に日本で働いていたが、それはゲームを始めとする日本文化に傾倒していたからで、
日本文化、もっと具体的に言えばビデオゲーム文化……『鉄拳』や『ファイナルファンタジー』の主人公に感情移入し育まれた使命感や正義感から、歴史に残る暴露事件を起こしたらしい。

現代的といえば現代的だが……ひと昔前のもっと真っ直ぐな価値観からスノーデン氏の動機に必死に辻褄を(整合性を)合わせようとしている、グリーンウォルド氏の姿勢が興味深い。

【本】『幼年期の終わり』アーサー・C・クラーク

ファーストコンタクトテーマに、(ニーチェ的な)人間から直線的に延びる超人思想が絡んでくるのはクラーク氏の個性なのだろう。

同じ地球に住む人類同士ですら場所や時代が違えば理解し難い断絶ができるし、まして昆虫や植物など違う生物種でコミュニケーションできるかどうかはさだかですら無いのに、はるか隔絶した文明を持ち進化の先にいる異星人オーヴァーロードが、人類と価値観を共通していることに驚く。

いかにも欧米文化圏に住む人の発想らしい。

未来について「国が消滅して」「英語を話さない人はいなくなった」という描写にも強烈な違和感。
人間には、他者から独立したい←→他者に取り込まれたい(所属したい)、という相反する本能があって、どんな未来になってもどちらか完全に寄ることはなくその中間を揺らぐだけ。
将来、国の垣根がなくなっても、民族や文化のアイデンティティが強まり、方言や言語が完全に消滅することはない。
そもそも翻訳機が発達すれば、英語を話すことができないハンデもなくなるだろう。

欧米の、人間的な価値観が、宇宙や未来にまで及ぶと思っていた頃の懐かしい寓話。