こんな映画を観た!」カテゴリーアーカイブ

映画の見方がわからない人が感想を書いています。ばんばんネタバレしていきますよ〜!
フェイバリット映画は『遊星からの物体X』。
時々アニメやドラマやドキュメンタリーの感想も入ります。
(特に記載がない場合はDVDでの鑑賞です)
 
このカテゴリーの目次はこちら→こんな映画を観た!

【映画】『フューリー』

映画館で観終わったときには新人兵隊が一人前の戦士に成長していく成長譚(ぎりぎりポジティブ)として捉えていたのだが、家に帰り一晩考えてみるとその逆、人間性を喪失していく過程(ネガティブ)を描いたものかもしれないと思うようになる。
(『フルメタル・ジャケット』のブートキャンプのごとく)

主人公は戦争という経験を経て、マシーンというあだ名を付けられる=戦車のパーツとして完成する。
銃を握ることすらできなかった主人公は、ラスト、銃を手放すことを恐れるようになる。
戦争という人間性が究極的に剥がされる出来事を描いているこの映画で、唯一の救いは主人公を助けたドイツSSの少年のように、人間性を最後まで持ち続けることなのだ。

しかし自分にそんな人間性を持ち続ける強さがあるかと問われると
「ない」
と即答するしかない。
人間性を失わないためには肉体的にも精神的にも尋常でない強さが必要だと実感。

【映画】『バトルフロント』

いかにもなシルベスター・スタローン脚本。
閉鎖的な街でトラブルに巻き込まれたプロフェッショナルが、能力を読み違えていた人たちを返り討ちにする……現代風にアレンジされた『ランボー』のような印象。
『ランボー』的なことを今映画で作るとしたら、これがリアリティの落とし所なのだろうか。

主人公/ブローカーが精一杯自分の度量のなかで負の連鎖を止めようと娘と同じ学校のモンペと仲直りする展開は嫌いじゃない、むしろ好感が持てる。
ブローカーも勘違いして相手に怒ったり、でもそのままにせず謝まりにいったり。
主人公としての矜持を守りつつも人間としての揺らぎがある(キャラクターの掘り下げ)。
そういうところが、印象が似ている同じ系列の映画のなかで頭ひとつ抜けている理由なのだろう。
ラスト、悪あがきを重ねた敵に正義の鉄槌!
最後の最後に爆発させるカタルシスが心地いい。

【映画】『ラストミッション』

プロフェッショナルが苦戦しながら家族の安寧を取り戻すために戦う話。
昨日鑑賞した『バトルフロント』ほか、『96時間』『トカレフ』など……この数年で同じパターンの映画を観ることが多い。
この手の映画でありがちな展開:壊れている家族間の愛情(離婚してたり片親だったり殺されたり)を取り戻そうとする→家族が危険にさらされる→ウィークポイントになって敵に突かれる。

しかし似たような構造なのに、昨日鑑賞した『バトルフロント』と比べると大きな断絶がある。
作家の必然性なく作られた、柳の下のドジョウに見えて仕方ない。

CIAのエージェントである主人公が第三国で主権侵害行為を繰り返す、その正当性が見いだせない。
敵が悪そうな奴としてしか描いていない(上司からターゲットに命じられている以上の理由がない)ので、主人公がいかにも利己的な動機で暴力をふるっているように見える。

余命いくばくもない病気に侵されている+薬の副作用がある主人公になぜ単独で任務を遂行させるのか?
主人公に指令を与える女が作戦に協力しない不思議(CIAにとって重要で予算をかけている作戦にも関わらず)、ただ単にエロ要員でしかない。

そして娘が敵のターゲットになったような伏線があるのに、最後まで何も起こらず娘は無傷なまま……何このザルのような話?

【映画】『デッドフォール 極寒地帯』

ただの雪山アクション映画かと思って観ていたら、それぞれの登場人物が持っている問題点(主に親子関係)が物語の展開とともに明らかになっていき……心理サスペンスであることがわかってくる。
ラスト、部屋の中で主要登場人物が一同に会する。
映画『ある戦慄』で、閉鎖空間(電車内)の暴漢によって乗客の人間性があらわになっていくかのようだ。
しかし一番問題があるのは当の場を仕切る強盗であり兄であるアディソン。
ラスト、神のように振る舞うアディソンへ向かい、運命の神の剣の切っ先が逆に向けられ、その因果は閉じる。

【映画】『her/世界でひとつの彼女』

現代的な問題を真正面から扱っていて、なおかつ逃げていない。
否定をするわけでもなく一般的な問題として捉えている。
ただし時代性を乗り越えたかというと、そこからは一歩踏み出せていなような気がする。
だからどうなのか、というこの先を見たかった。

それでも「コンピュータに依存するのはやめて現実で生身の彼女と付き合ってハッピー・エンド!」……みたいな思考停止的ラストにならないだけよかった。
日本のドラマや映画だったら普通にこんな感じで終わりそうだ。

それにしてもこんな不安定なOSをコンピュータに入れるなんてリスキー過ぎる。
これで仕事に支障をきたした場合、補償金は出るのだろうか。

【映画】『ポンペイ』

『タイタニック』と基本的なプロットはほぼ同じ。
身分違いの恋、男は女に自分の住んでいる場所から一歩外へ踏み出すきっかけを作る……しかしそれだけではなくグラディエーター、ディザスター、ラブロマンスなどたくさんの要素を入れることによってそれぞれのいい部分を相殺し、『タイタニック』にないB級感を増すことに成功している。

結果的に登場人物全員死ぬという容赦無さが『タイタニック』との違いを浮き出させている。
唯一救いがあるとすれば、自分のエゴを捨てて他人のために行動した者は死んだけれども魂は浄化されるということだろうか。
思考停止にもほどがあり作り手の志の低さ推して知るべしだけれども、隠しもせず堂々としているところは見習うべき。

ラスト、二人がキスをした瞬間に火砕流が飲み込んでしまい、カットが切り替わるとキスしたまま彫像のように固まっている二人が大写し、そのままカメラが周囲をグルグル回るシーンは必見!

【映画】『ラストベガス』

まだまだわしらも若いもんには負けないぞ、ちょっとどんくさい所もあるけどそこもまた味なのだ!
という感じで老人四人組がトラブルを乗り越え活躍するのだが、そこにギミックはない。
例えば物語を通して主人公たちが妙にモテるのだが、そのモテかたが年の功(スキルやエピソード)だったり何か理由があるわけでなくなく、単に性的魅力があるからモテたりする。
彼ら(マイケル・ダグラス、ロバート・デ・ニーロ、モーガン・フリーマン、ケヴィン・クライン)がハリウッドスターという名声でモテるというのならまだわかるが、ただの一般的な年寄りなのに、何故?
チンピラの若者に絡まれたときは、相手をパンチで叩きのめす。
年をとっても格闘技を続けていたようなエピソード、偶然、ギミックなど……説明はない。
入ってすぐに腰をおろして参加したカジノで大儲けすることも……説明はない。
(本当にただ単に大当たりするだけ!)
無条件で世界中が彼らを応援する、そんなパラレルワールドに迷い込んだような印象……これはまぎれもないSFだ。

僕もあと三〇年たったらこういう映画を楽しめるようになるのだろうか?
今の気持ちとしてはこういう映画を楽しめるような年寄りにはなりたくないけれども。

そもそもこういう映画を観に行く人がいるというこの現実世界……これはまぎれもないSFだ。

【映画】『インターステラー』:ユナイテッド・シネマとしまえんで鑑賞

ワームホールを抜けて到着した先は、恒星とブラックホールと中性子星……三つ以上の連星を回る惑星系。
どう考えても、惑星の軌道が不安定で人間は住むことが出来なさそうだ。

結果的にはそこへ行くこと自体は重要でなく、単にブラックホールに主人公がいけば済む問題だった。
だったらいっそのこと地球の近くにワームホールを作ってそこから直接ブラックホールに向かうことができれば、面倒くさい手間はかけずに済んだのに。

ブラックホール描写は科学者の監修が付いているからケチを付けても仕方ないことにしても、それ以外の物語のファンタジー度と言ったら。
全体的なプロットは藤子・F・不二雄『ドラえもん』の「あやうし! ライオン仮面」で、親子の関係性は楳図かずお『漂流教室』といった体だ。
それにしてもプロット上の穴が多いのは、ブラックホールの穴のメタファーなのだろうか。

【映画】『武器人間』

武器人間が『電人ザボーガー』『太陽の星アステカイザー』『ロボット刑事K』などを彷彿とさせる七〇年代の低予算特撮に出てくる怪人のようなデザイン。
二〇一〇年代の昨今だと一回転してちょっとかっこよく感じる。

お約束とはいえこういうモキュメンタリー映画は、誰がどうやっていつまでカメラを回し続けるのかという問題が浮上する。
こんな戦場で何故そこまでしてカメラを回し続けなければらなないのか。
最後はカメラマン自体が拘束されて手術台の上、どうするのかと思ったら
「こうやって映すのか」
て他の人が替わりに映し始めることに無理やりさを感じる。
(ギャグ寄りになってしまう)
そしてこの映画もやっぱり、カメラが映し続ける映像の最後と出来事(物語)のラストのリンクがずれ、完全な問題解決を観ることができないまま終わってしまう。

【映画】『そして父になる』

最近子供が生まれた友人が、酔って僕に絡み
「俺から言わせれば結婚もしてなくて子供の一人もいないお前はまだまだひよっこだよ!」
……そいつがものすごく嫌いになった。
そんな説教をする奴のどこが大人やねん! 
とそのとき思ったものだが、その友人がこの電気屋のお父さんそっくりなのだ。
貧乏だけど手作り感でカバーする、アットホームな家族という押し付けに……もう、うんざり。
(既成概念から踏み出していない「よきこと」)
こんなお父さんがいたら、僕なら確実に反抗期で大暴れだ。

距離を置いてくれる父親のほうがまだマシだ。
自分がわかっていないことが成長してわかるということは成長の余地が残っているということ。
大人(父)になりきれていない(福山雅治演じる)野々宮さんのお父さんにほうに、僕は強く感情移入できる。

しかしこの映画で描かれているように、この電気屋みたいな父親に子供が魅力を感じるということはリアリティのあること。
となると子供に「子供だまし」は有効なのだろう。

カツラは、大人は大騒ぎするけれども子供は意外とかぶっていることに気づかないものだ。

【映画】『ノア 約束の舟』

天啓とは、周囲に起こった出来事、白昼夢で見た映像を、自分なりに解釈すること。
何とノアの受けた天啓は「邪な人間を全て始末して動物だけを生き延びさせろ」。
方舟を作るとき、管理だけのためだけに必要最低限の人間(自分の家族)は生きながらえさせてもらっているだけで、それが終わると自ら滅ぶ運命……という解釈だったのだ。
それなのに子供がみごもっていることがわかったからさあ大変、ノアが刃物を手に赤子を抱えた娘を追いかけまわす『悪魔のいけにえ』な展開になる!

その独善たるやグリーンピースやシーシェパードを彷彿とさせる。
しかし、この映画で描かれているノアの箱舟は、天使(ウォッチャー)と神の奇跡によって作られたわけで、ノアの家族こそ何もしていない。
では何故ノアの家族が選ばれたのか?
それはひとえにカインの子孫より神を信じている(信心深い)からだろう。
聖書の中の神(ヤハヴェ)が天罰をくだされたとき……ソドムとゴモラ、最後の審判、ノアの方舟など……助けるものの優先順位は、神を信じているものが、善きことをしているものに優先される。
貢献度順ということだろうか……紅白歌合戦のようで、納得がいかない。

【映画】『8 1/2』

大槻ケンヂ氏の初期の詩の世界みたいだった。おそらく逆で、大槻ケンヂ氏が影響を受けていたのだろうけど。

映画作りに難航していて、現実と夢の世界を行き来するかのような主人公の混乱は伝わってくるが、正直、理解できたとは言いがたい。
直接的な表現を使わず隠喩で描かれるシーンが多いということもあるが、馴れない白黒の画面、区別がつきにくい西洋人の顔、覚える前に登場する新しい名前……物語世界に入るより前にそれらが障壁になって混乱に輪をかける。

主人公の愛人の腋毛がチョロリン!と見え隠れするのがエロかわいかった。

【映画】『女ガンマン 皆殺しのメロディ』

冒頭でレイプされた(ラクエル・ウェルチ演じる)ハニーは、ポンチョを羽織るが上半身は裸、下はピチピチの革パンツ……という格好で旅に出る。
そんな随所のヘンテコ演出が、物語自体は綺麗にまとまった復讐譚なだけに印象に残る。
特にラスト、ハニーが危機に陥ったときに助けに来る謎の黒ずくめのガンマンは何なんだ?
そのあと説明がないまま唐突にエンディングを迎える……これは、キューブリック映画みたくあえて説明を抜くことで神秘性を増させる効果だろうか?

僕の中でアーネスト・ボーグナインは、何故かルイ・アームストロングと名前がごっちゃになる。

【映画】『オン・ザ・ロード』

膨大な量の原作を全てなぞることは不可能でエッセンスを取りだすしかないにしても、キャッチーな部分を抜粋しただけ過ぎる。
原作にあるニュアンス、過剰で混乱しきって焦りに背を押され輝きも一瞬でこぼれ落ち残る喪失感……が伝わってこない。
あの頃はワルだった、武勇伝的に美化された思い出。

ただしラストは良かった。
原作で冗長気味だった感情がシンプルに抽出されている。
ディーンがあこがれの対象から人間に堕ちていく……しかしディーンは最初からディーンで、特別の人でない。
主人公が変わったのだ。

【映画】『惑星ソラリス』

原作は何度も読んでいたが、映画版を観るのは今回初めて。

調査のため惑星ソラリスへ訪れた主人公。
ソラリスの海は、人間が普段心の奥底に封印している思い出したくない記憶(に関わる人)を実体化させる作用がある。

主人公クリスは、一〇年前に自殺した妻と惑星基地で邂逅する。
思わぬ事態にうろたえ、現れた妻をロケットに詰め宇宙へ放逐してしまう。
しかし妻は再び同じように現れる。
クリスは、自分の過去におかした過ちと向き合うため、訪問者(ソラリスの作った人間)としてではなく、彼女を人間として(現実の妻として)向き合うことを選択する。
クリスの記憶だけの範囲でしか思考ができなかった妻は、彼との触れ合いの中で自我が目覚め人間に近づいていく。
そんな妻の辿り着いた答えは、皮肉なことに自らの死だった。
科学者仲間から妻の死を知らされ、主人公は落胆する。
そんな彼をねぎらうかのように、ソラリスは、主人公が捨てたはずの故郷を再生させる。
そして主人公は父に許しを請うようにひざまずく……

原作にあった、人類をはるかに越えた知性とのコミュニケーション的な要素はなくなり、ソラリスは人の思い出を具現化させる装置としてのみはたらいている。
それを深みがなくなったと捉えるかどうかは難しいところだ。

【映画】『王立宇宙軍 オネアミスの翼』

学生の頃、友だちに勧められて観たとき、ピンとこなかった。
今回観直してもやっぱりピンとこなかった。
だけれども単純に面白くない、と言ってしまうには言い切れない……変な噛み切れなさが口の中に残る。
作っている人たちの志の高さはわかるのだけれども、理屈が先に出すぎていて面白さがついてこられずにいる印象だ。

暗殺者から逃げるシークエンスは、メリハリがなく唐突に始まったり終わったりを繰り返す。
僕と映画の間で感情移入ポイントのズレのようなものがあり、それが違和感になって、主人公が逃げているシーンも、夢の中のように身体がうまく動かないもどかしいものとして伝わってくる。

映画全体に(おそらく意図的でない)夢の中のような浮遊感で満ちている。
意図の消化不足のせいだろうか……しかし今の基準から見てもじゅうぶん高い技術で作っている。
その高い技術力を持っても到達できなかった志の高さということか。

そこまでの志の高さに当時どこまで勝算があったのかわからないけれども、それでも戦いをいどむ姿勢に対しては凄みを感じる。

【映画】『ガガーリン 世界を変えた108分』:新宿シネマカリテにて鑑賞

何と……映画の長さは一一三分! 
ガガーリンが人類初の宇宙飛行士として打ち上げられて帰還するまでの一〇八分を、ヒッチコック『ロープ』のごとくリアルタイムで描いた映画かと思っていたらそうではなかった。
ドキュメンタリー風でもなく、今流行りのPOV方式でもなく、打ち上げのその日の出来事をガガーリン自身の半生を回想を交えて描いた比較的オーソドックスな作りの映画だった。

ガガーリンの人間的な部分は断片的に伝わってくるけれども、彼が他の人よりどんな部分で抜きん出てどんな理由で選ばれたのかはあまりはっきりしなかった。

【映画】『インデペンデンス・デイ』

・可視化した都市サイズのUFO。
・コンピューターウィルスによって宇宙人を倒す。

この二点が公開当時、斬新だった。

しかしその他の価値観や見せ方は既存のハリウッド映画を一歩もはみ出していない。
既視感のある見せ場を当時の最先端の技術で映像化し、職人的なテクニックで物語をコラージュしたような……それはそれで一級品だが、ビッグバジェットSF映画のパロディのようだ。

宇宙人の捕虜を必要以上にどつきまわす、ウィル・スミスの粗暴な行動にイライラする。
第二次世界大戦中、日本軍が捕虜の扱いが悪かったことを欧米人が非難するなら、こういう見せ方でカタルシスをつくるなよ!
フィクションであれ観客が心地いい描きかたなわけで、こういう行動をアメリカ人がどこか許容しているということではないか。
(今ならイスラム圏に対して)

【映画】『複製された男』

存在しているが普段は見ることができない(石ころ帽子的な)クモ人間によって、人間社会は支配されている。
主人公は秘密クラブのセックスによってクモ人間によって生み出されたクローン人間で、『ブレードランナー』のように、自分はひょっとしたらクローン人間なのか? 真実の人間とはなにか? 的な問題と日常を絡めた物語。 

……だと思って、鑑賞後調べてみたら全然そうではなかった。
ドッペルゲンガーもので、現実にあったことを妄想を混じえて時系列通りに流さずにシャッフルすることで、ある種のミスリードを誘うようになっているみたいだ。
ただでさえそんなミスリードを誘う映画なのに、邦題がクローンを想起させるものだから余計そっち側に引き寄せられてしまう。

クモを使った隠喩も、まるでそういう現実に存在する化け物みたいに描いているからSF的な設定を受け入れてしまう素地になっている。
クモも実際の小道具として物語に絡ませたりあくまで妄想としてわかる演出だったら、わかりやすい内容だった。
ということは、この映画で不可解な部分は叙述レベルのことで、内容はそこまで哲学的な話でもないし、深みはない、わりかし「そのまま」な話。

フェアじゃない!

【映画】『セブン』

一五年ぶりに鑑賞、今観ても古くなっていない。
スピーディだが早すぎず、観ていて退屈しない。

犯人の考えていることが以前と同じく相変わらずさっぱりわからない。
浦沢直樹『MONSTER』でも思ったことだが、悪が、「世界の記憶に残るだろう」などインパクトを喧伝するわりにはやっている自体はありふれている事件……とまではいかないが最後は「刑事が妻を殺された怒りで犯人を射殺する話」、新聞に載っていてもおかしくはない。
宇宙の終わりの一つの仮説である、相転移現象のように一瞬にして全世界に波及するほどの事象でもない。

観客は世界が揺らぐほど驚くが、それはあくまで主人公側の視点から観ているからのことだ。
犯人が話していたことが、あくまでブラッド・ピットに対してだけ語っていたことなら、まだ腑に落ちる。

【映画】『普通の人々』

慎重な演出で、登場人物全員それなりにリアリティを持って描いているのだけれども……
母親が次男にストレートな愛情を持つことができず拒絶する様子があまりにも尋常でない。
あたかも主人公側(父親と息子)の敵のように描かれていて、母親の内面が最後までうかがい知れないままだった。

父親と息子は成長(変化)するが、母親は変化を拒否し(実際に公言し)去っていく。
解決しないまま、そんな現実を突きつけて物語は終わる。
これもひとつのリアリズムの形だろうけれども……到底「普通」じゃなさすぎる。
そういう「普通」でない人も含めてタイトルの『普通の人々』という意味なら、たしかにそうだ。

【映画】『アクト・オブ・キリング』

大量虐殺について:
ミロのヴィーナスを美しいと感じるのはそういう背景の文化の中にいるからで、芸術は学習によって後天的に学ぶ概念だ。
同じように夕日を美しいと思うことができるのも、我々のいる場所が安全だから。
アフリカでは夜に近づくと捕食動物が跋扈するので、夕日をみると人は恐怖を感じるという。
すなわち、殺人という行為にブレーキがかかかるのは、あくまで僕たちがそういう文化圏に住んでおり、映画や小説や法律や映画や日常会話……それを前提とした文化があって、共通理解のもとで、コミュニケーションがしているから。
目的のためには殺人もよしとする文化圏では、僕達が非難しても、
「じゃあイラクでアメリカは?」
「文化大革命で中国は?」
「第二次世界大戦中の日本は?」
と相対化されるだけ。

映画作りについて:
(対象として)主人公のアンワルにとって、この映画を作るという行為がカウンセリングそのものだったのだろう。
悪夢(罪悪感からの)に悩まされるアンワルが、自分を苦しめる共産主義者を怪物の着ぐるみで再現する行為は、小さい子がオバケの絵を描いた上から×を大きく描いて「コワクナイ!」と宣言するようなもの。
自分のした行為を告白、映画化することで昇華しようとした。
しかし映画を観たとき、そこで自分自身を折り合いをつけるどころか、心の奥底に抑圧してきた考え(疑い)までが表面に浮かび上がってくる。
客観的に自分を見てしまう。
(目的のためなら人が殺していいという共通理解があったとしても、それを否定する考えかたがあることも知っている)

カウンセリングのさらに先に到達してしまった。