マーブル漫画のヒーローが集合し、ナチの黒幕だった宇宙人と戦う……
映画『アベンジャーズ』の元ネタ的な漫画。
絵は素晴らしい。
刺激になった、が……
登場するヒーローがみな精神的に何らかの障害がある(わざと?)ため、感情移入しにくい。
暴力的なのは精神的におかしいキャラクターだからではなく、アメリカ的な思考ではこれがノーマルなのかもしれない。
あるいはさらにそれを俯瞰して、そういうキャラクターの思考を茶化して描いているのかもしれない。
この本単独では読み取ることができなかったが。
家出少年のホーティがもぐりこんだのは、見世物小屋のカーニヴァルだった。少年はそこで自分の出生にまつわる奇妙な宝石のことを知る……
一四歳で初めて読んで以来、何回目かわからない再読。
今回は四カ所で涙。
1:ハディの渡した派手なハンカチ
2:ハバナのためにホーティが歌う
3:ソーラムの書いた文章
4:ホーティがある女性と結ばれるところ
中学二年で初めて読んだときは泣かなかったと思うが、泣くという感情はいろんな経験を経て感受性が広がっていくらしい。
年々、涙ポイントが多くなっていく。
自分がこの本を読んだきっかけは世界SF全集に収録されていたからだが、いま、この小説を偏愛しているポイントはむしろセンス・オブ・ワンダーでない部分かもしれない。
自分が偏愛している部分は世間からはみ出したもの達が必死に生きようとするところ。
マイノリティーの悲しみ。
ホーティが、ハバナに共感してもらえて号泣してしまうところが象徴的で、僕はこの気持がひどくわかるのだ。
これと同じ感情を筋肉少女帯大槻ケンヂ氏が書いた歌詞の中に見た。
スーパーヴィラン(特殊能力を持った悪のヒーロー)たちが刑務所から脱出、大暴れを始めたため、前作(僕は未読)で解散したアベンジャーズ(アメコミヒーローたちの混合グループ)が再び立ち上がる……
コスチュームを着る、着ないにこだわる正義/悪のヒーローのこだわりがわからない。
日本人からしたら現実でマスクをかぶっているなんて強盗とか覆面レスラーなど、あまりいいイメージがない。
日本のヒーローものでは、ウルトラマンにしろ仮面ライダーにしろ、変身して体の形態を変えて特殊能力を使うという感じ。
服を着るだけだとしても、コスチューム自体が強化スーツだったり、素性を隠すためだけにコスチュームやマスクを着るだけなんて圧倒的少数派だ。
どういう文化の違いなんだ?
ストーリー自体は他愛のないものだが、作画のデビッド・フィンチ氏はアメコミとして安定していて絵が格好いい。
『ニューアベンジャーズ:ブレイクアウト』
http://matsudanozomu.com/?p=10311
の続編。
新生アベンジャーズの誕生、そして活躍。
それにまつわる独立した二短編が収録されている。
一話目は意味がよくわからないが、恐らくメタフィクションぽい話。
二話目は日本が舞台、ニンジャやシルバーサムライが登場。
ストーリーは前作同様、他愛もない。
一話目の作家スティーブ・マクニーブン氏の絵は、
集中線で演出したり、単調にならないよう静止したシーンのカメラアングルも見やすく変えたり、コマ割りも含め、日本漫画っぽい演出がみられる。
しかし二本目の作家デビッド・フィンチ氏は作画は安定して達者だが、非常にアメコミ的な漫画演出。
会話中、カメラアングルを一切かえないで吹き出し中心に進めるので、日本人の感覚からするとかなり読みにくい。
地球人が来て、また地球人が去って行くまでの火星の歴史。
久しぶり(五回目)の再読。
今回は意外と破綻しているという印象……中二に読んだときが面白かったピーク。
妄執にとりつかれた登場人物が、目の前はびこる過去のことを大切にしない、価値観と戦う。
スタージョン、ジャック・フィニイ、ロバート・F・ヤングと同じく、読んでいて強いノスタルジィを喚起させる。
冒頭の何編かの地球人と火星人のファーストコンタクトに纏わる話、それぞれ火星人の立ち位置が違いすぎて、別の設定の話みたいだ。
これを同じ火星人と捉えるなら、
違う種族?
個体差が大きいから?
火星人が行っている行為も意図的なのか意図しないものなのか判別し難いので、一層混乱させられる。
「第二のアッシャー邸」
にも同じことが言える。
これは火星で起こった出来事にする意味があまりわからない。
(中二で読んだときにも思った)
ハザウェイのエピソード、妻子を人造人間にする意味がわからない。
連続性のあるエピソードにするなら変身した火星人のほうがいいのでは?
ただの医者なのに人造人間を作る技術を持っているって唐突過ぎる話だし。
それぞれの短編の完成度は極めて高いのだが、微妙に違う世界観を持っているのでおさまりが悪いと思った次第。
ちなみに二〇一〇年頃、ブラッドベリのインタビュー
「本は紙で読むものだ。電子書籍にしてくれと言ってきた奴がいたので『地獄に落ちろ』と言ってやった(意訳)」
http://www.afpbb.com/articles/-/2748823?pid=6086074
電子書籍が駄目だけど紙に印刷した本は読んでいるし、
映画を観ているし、
テレビも観ているわけだし。
その線引は自分の過ごした時代に縛られているだけのことじゃないか!
古き良き時代の文化を大切にするにしても、それはあくまでも本人の主観で、それこそその基準は時代ととともにかわるもの。
微妙な気持ちになった。
そして少し前にブラッドベリが死んで、今はAmazonの電子書籍で『火星年代記』を読むことができる。
みんな地獄へ落ちちゃうよ!
最低限、岡田斗司夫氏レベルの天才になることとができるノート術。
頭のいい人は自分に自信があるのでノートをとらない。
何でもノートに書く癖をつけることによって記憶することはもちろん、脳のジャグリングを防いだり(思考が同じ所をグルグル回らないようにする)、発想、論理、表現の総合力を上げて、「面白いこと」を考えることのできる天才に近づこう、ということらしい。
この書籍に書かれている「面白いこと」が、僕には主観的過ぎてピンとこなかった。
このメソッドはレコーディングダイエット(この書籍でも何度も言及される)のように記録を助走段階から徐々に始めていくのだが、そもそもレコーディングダイエット提唱者の岡田氏がリバウンドしているので、説得力に欠けるのだ。
それにしてもこの書籍で言われている天才の定義、いかにも岡田氏らしい上からの物言いだ。
松本人志氏は論理力が不足しているから映画作りで破綻する、太田光は表現力がない、サンデル教授は発想力がない……云々、正直よういうわ〜と思うけれど、そういう挑発的な表現も含めて岡田氏は計算で言っているだろうから、僕からは何も言うことがない。
あまりSFでない、幻想的な短編集。
飲み込みやすい内容とは決して言えず、同じ著者の『夢みる宝石』の叙情的な雰囲気に比べると、意地悪で容赦無い。
僕の感覚では使い古されている、あまり新鮮でない展開もあったりする。
(少し経年劣化をしているかもしれない)
それでもフェティッシュに好きな短編がいくつかある。
個人的にはこの二編が気に入った。
「熊人形」
夢と現実が夢を媒介して行き来する。
「めぐりあい」
『胡蝶の夢』あるいは『世界が終わってしまったあとの世界で』の変奏曲のような。
ただし「めぐりあい」は『海を失った男』版の新訳「シジジイじゃない」のほうがわかりやすい。
こちらの『一角獣・多角獣』版はやや説明不足。
手詰まりになった連続殺人事件を、収監されている精神科医の殺人犯レクター博士のヒントでFBI訓練生のクラリスが推理していく……
先日映画版を観たので、どういう風にこの五〇〇ページの小説を映画にしたのか確認するため二〇年ぶりに再読。
おそろしく現実感があり、現実世界を再現したかのごとく街、人物、出来事が物語の中に配置されている。
新聞に書かれた記事のような情報の精度……著者は記者、レポーター、編集者の経歴があるという。
が、この物語のキモはクラリスとレクター教授というキャラクターであり、キャラものなのだ。
文章に味わいを求めるというより、新聞の事実の向こう側の現実に思いを馳せるように読む書籍だった。
一〇代の時、夢中になって読んだ書籍。
宇宙飛行士が宇宙でどんな体験をしたのかを探るルポルタージュ。
宇宙飛行士が目をつぶっても感じることができた閃光(身体を透過した粒子が網膜細胞を破壊するときに生じる現象と言われている)の存在など、当時おおいに感銘を受けた。
今読み返してみると、宇宙へ行って……というよりもっと一般的なこと、地球(世界)をメタに見るような機会があったとき人がどう変化するか……について大きな示唆を与えてくれる。
みな一様に、国境を超えた地球の存在、宇宙に浮かぶ地球のはかなさ、大切さを口にする。
そして多くの宇宙飛行士が、人類の存在を超えた神の存在、あるいはキリスト教に限定される狭い神、さらにはキリストの名前を口に出す。
一般的な反応というよりアメリカ国の文化的影響の強さを、そこに感じた。
他の文化圏の宇宙飛行士はどう感じるのだろうか。
月からの帰還後、社会不適応になって精神を病んでしまったオルドリンなど、今の僕には他人ごとではない。
まあ、月など行かなくても僕は社会不適応だけれども。
現代日本の第一線SFにいる人達の作品を集めたアンソロジー。
円城塔、月村了衛、酉島伝法、野崎まど、長谷敏司、藤井太洋、宮内悠介、宮部みゆきなど。
短篇集、特にいろんな人の作品が集められたアンソロジーは、短編ごとにいったん作ったリズムをまたイチから作り直しながら読むので、覚悟がいる。時間がかかる。
読書会のため、何日かかけて読了。
これがいまの日本SFなのか……
(あるいはそれを象徴するいくつかの方向性なのか)
小学校のときにジュブナイルSFを読み始め、中学高校時代は筒井康隆全集から世界SF全集とどっぷりSF漬け、しかし大学に入るとSFから少し離れサブカルを読み出し、数年前からまた本格的にSFを読みなおし始めたそんな僕のSFに対するスタンス。
このアンソロジーを読んで自分がSFが好きなのかどうかよくわからなくなってきた。
興味深い作品もポツポツあるが、全体を通してツボでない。
自分がドンピシャで好きなのはSFでなく、SFと隣接する何かなのだろうか。
幻想に通じる叙情的かつノスタルジックな光景、
破壊的なまでグロテスクな描写、
ギャグ漫画に通じるアクロバティックな発想……
そういういくつかのツボにかすっているものは面白く感じるが、現在の日本SFを象徴するような作品はあまり好きでないようだ。
逆説的に言えば、そんな僕でも興味を引くツボがそれなりにあるということが現在の日本SFの多様性なのだろう。
以前からそれなりに好きだったプログレをこの二年かけて本格的に聴きこんでみた。
ショップやAmazonやTunesでダウンロードしたりで入手して聴きに聴いた数千曲。
毎日新しいアルバムを聴きながらジョギングしている。
聴きこむとプログレの中でも好きな曲と嫌いな曲があり、その傾向をみると僕は比較的クラシックの影響が多いものが好きなようだ。
もともとクラシックはそれなりに聴いていて、今現在でiTunesに登録しているものは全部で四八七六曲、主にバッハなど宗教音楽中心だが、プログレを聴きながら自分の好きな傾向をより掘り下げていくために
読むぶんにはちょうどいい感じの情報の入った本だった。
クラシックを聴く方法論はいくつかあるらしい。
●クラシックの代表曲を流れで聴く。
●作曲家を掘り下げる。
●指揮者を掘り下げる。
●同じ曲を指揮者で聴き比べる。
後者ほどマニア度が増していくとのことだが、自分は全部ゆるやかに当てはまる。
それなりの流れでクラシックは聴いているが、「マタイ受難曲」に関しては相当数聴き比べている。
その自分が一番好きなマタイ受難曲が一般的にはあまりおすすめでないとの記述に、あ〜自分はいつもこんな感じって思う。
再生能力を持つアメコミ主人公がパラレルワールドでゾンビ化した自分の首から上と一緒に、いろんな世界を旅する。
自分が漫画のキャラクターだということがわかっているというメタフィクション設定なのだがそれが漫画内で主人公の能力と何も結びついていない。
ただ単にそういうお遊びなだけ。
「おい、こっち見んな!」とか読者に話しかけてくるだけ。
木多康昭氏のほうがよっぽどメタ構造のヒーローを描いているよ!
日本の元祖メタフィクション作家筒井康隆氏が原作を書いたらもっとメタな能力のお遊びを描くことができたかもしれないのに。
絵や漫画表現のみならず出版の枠組みなどを利用して戦っていただきたい。
絵はアメコミっぽいのに群衆などにどこか牧歌的な部分もあったりして憎めない。
僕的にはかなり好み。
ペン入れからパソコンで仕上げたフルデジタル原稿と思われる。
デジタルのよい所わるい所両方が散見できる。
デジタルのよい所
1:拡大縮小を繰り返すことによって、細かい部分を限界まで描くことができる。
2:トーンを貼ることが楽。
3:テクノロジーに対する興味、新しい表現ができる
デジタルのわるい所
1:拡大縮小を繰り返すことによって、線の強弱がコントロールしにくい。線の不統一がどうしても目立つ。
2:トーンを貼りすぎてしまう。
3:手軽で効果を上げる技法(写真の背景加工など)を多くの人が集中的に行うため、似たような作品になりがち。
アナログなら簡単にできるペンの表現にやや難がある(抜きが綺麗に出ない、線がよれよれになる)。
筆を使ったタッチ、マチエール(素材・材質によってつくり出される美術的効果)を使った表現をパソコン上で行うことは困難。
年配の漫画家さんが老眼で遠ざかった原稿描きに、絵を描きながら拡大縮小できるのでデジタル化することによって復帰している向きもあると聞く。
悪いことばかりでもないようだ。
物語の構造自体は『COWA!』『SAND LAND』と似ている。
トラウマを抱え世捨て人となっている男が、若くて向こう見ずな異人種と力を合わせ大事件を解決、トラウマを乗り越える。異人種は故郷に戻る。男は元いた場所にとどまるが、事件を通じて社会とのつながりが少しだけできる。
地味だが面白い。
しかしもはや自分は鳥山明氏に関しては小さい頃からの思い入れ懐かし補正が強すぎて純粋に読むことができない……
漫画表現的としては全体的にストイック。
構図は斜め上、横、バストアップ(顔のアップはなし)。
陰影を重ねたりなどの劇画的表現はほぼ使わない。
読者がストレスにならないようわかりにくい部分に極力説明を入れる。
図や文章、場合によってはエピソードを挿入したり、そういう心理描写だけでない情報の積み重ねが強い閉塞感を醸し出している。
そのためか私小説的な内容にも関わらず、ルポルタージュ的な意味合いも持っている。
その両方分け難い奇跡のようなバランスで作られた漫画だ。
ここで描かれる精神病院にもヒエラルキーがあり、人間関係の苦手な自分からするとそこに行っても適応できなさそうで、生きることってこんなに厳しいことなのかと暗澹たる思い。