こんなこと考えた!」カテゴリーアーカイブ

あんなことこんなこと、考えたことをメモ代わりに書きました。

【考】生肉について

俺は小さい頃から生肉に異常な執着があった。牧場や動物園に行くとまずこの動物はどんな味がするのかなあ、といつも想像していた。しかも焼いたり煮たりとかあまり加工しないで生の状態でかぶりつくところとか。
だから取材で食肉センター動物を殺す瞬間の映像を観ても、実際に豚がどんどん解体されている作業場を見学しても、食べ物にしか見えなかった。

ところが肉だ肉だとテンション上がっている最中、ベルトコンベアの上に流れていく動物の内臓を見て、唐突に僕は気分が悪くなってしまった。
それはおそらく、人間の内臓との共通項を見つけてしまって、食べ物として見ることができなくなってしまったからなのだろう。この切替えが不思議なのだが、その一時間後、焼肉屋へ行って同じものを見ると、また食べ物にしか見えないのだ。焼肉屋の内臓は食べ物でしかない。

思えば僕たち人間は、肉を見ておいしそうと思うけど、人間を見ておいしそうって思わない。おそらくそれは人間だけが、共感するという感情を持っているからではないだろうか。「自分が食べられたら痛い!」 動物の死に対して僕たちが一定の配慮をするのは動物にすら自分を重ねるからなのだろう。
そして屠殺でどういう態度をとるかはその国の死に対する考え方や文化が関係してくるのではないか。僕の国の屠殺につながる歴史や差別などを考えると、もっとオープンにして、生き物が食べ物になる瞬間を見なくちゃならないんじゃないかと僕はこっそり思った。自分の手でさばいた軍鶏は美味しかったよ。

【考】FF13を一八時間プレイした雑感

自分とFF13

FFシリーズは1から12までほぼリアルタイムでプレイしてきた。
しかしここ最近(と言っても一五年近く!)はちゃんとプレイできていない。
9まではとクリアしてきたのだけれども、
10は物語が面白くならないので三〇時間前後で放棄、
11はネットゲーム一見さんにハードルが高すぎ、一人でプレイできず三時間で放棄、
12はフィールドのスクロールや戦闘など、ゲームシステムに馴染めず物語を楽しむ以前に二時間で放棄、
という有り様だ。

心機一転、今年の正月からFF13をプレイし始めたけれども、やはり自分の中で今ひとつの盛り上がり。
麻薬性が弱いのでコマ切れにプレイしてもストレスにならないので、二日に一度、一時間前後、コマ切れにプレイしている。ここ最近は一〇日近く間が空いている。
このままではまたプレイすること自体フェイドアウトしてしまいそうだ。
自分の変化なのか、ゲーム自体の環境の変化なのか、その相乗効果なのかはわからない。
他のRPG(特にドラクエ)は相変わらず長時間プレイしてしまうのだけれども……

今日は悶々として何も手につかないので、ここは気分転換に今日一日、FF13をプレイする一日にしようと決めた。
まとめてプレイすると、いままで漠然としか思うことができなかった考えが形になってきた。

FF13に満足したところ

●新しい物語の形を観ることができる。
ドラクエタイプのオーソドックスな(古典的な)RPGを中心にプレイしてきたので、ある種のSFのような、一般的な何かに置き換えることが難しい物語を観ることは新鮮な体験。

●圧倒的なグラフィックの強さ。
モンスターや武器、建物などガジェットの個性的なデザインに、新しさを感じたり、FFらしい懐かしさを感じたり。

FF13の物語に関する不満点

悪いところはいいところと表裏一体にあるのだけれども……
物語に関しての不満点は、身の回りの一般的なことに置き換えにくい、ということに尽きる。
そもそも物語に感動するということは、間接的な追体験するからで、
追体験(登場人物になったような気持ちになって感情移入)するためには、自分が経験したり、映画や小説や漫画で追体験したことを心の奥底で思い出し、再構成しなければならない。
このFF13は自分自身の体験(あるいは一般的な物語)に置き換えることが極めて困難。

●コクーンとパルス
世界がコクーンとパルスに分かれているとのことだが、二〇時間近くプレイしてまだその差がわからない。
想像するに文明国と未開の地ということだろうか?
しかしそれぞれに所属するキャラクターの思考も文化にも決定的な差異は描かれていない。
ひょっとしたら現実世界や架空の物語における何も模していない完全に新しい概念の世界なのかもしれない。
もし新しい概念ならヴィジュアル的にも詳細に伝えるべきだが、そういう描写は特にない。

●ファルス
コクーンとパルスそれぞれにファルスがあるとのことだが、外見がメカっぽいので人間をコントロールしている電子頭脳のようなものだろうか?
政府の権限より更に上にあることから、もっと権威的な宗教的なものを連想させはする。
しかし具体的な描写がほぼない(間接的な描写のみ)なので、生き物か機械なのかそれとも高次元の意識なのかもはっきりと把握できない。

●ルシは何を指しているのか?
ファルスによってルシにされたものは、身体に刻印が生まれ魔法を使うことができるようになる。
ファルスの使命を守らなければシ骸(ゾンビのようなもの)になり、使命を守るとクリスタルになる。
聖書の「ヨハネの黙示録」で悪魔側についた人が獣の数字666を額に刻印されたかのように、何かのしもべになった証のようなものだろうか?
ルシになることで魔力を使うことができるということは、『ドラゴンボール』の魔人ブゥ編でベジータがバビディに魂を売ることでパワーを引き出してもらったたようなこと?
ルシにされた人たちと他の人達と差異がわからないから、一般的な意味を推測できない。

かように象徴的なことから推測して物語を自分の中で脱構築するという作業を人間はするものだが、FF13ほどその材料を与えない物語ははじめてだ。

FF13のゲームシステムに関する不満点

●カタルシスのある映像はプレイできずムービーのみ。
話の方向性が見えてくるほど、スケールの狭い範囲のことしかできないことに愕然とする。
画面の中にある世界の限定された線上しか行動できない。
ここを動き回れたら楽しいだろうなあという肝心の部分は動かすことができずムービーになってしまう。
岩場も光っている円(ここに乗ってくださいというゲーム上の印)に乗れば自動的に主人公が跳んで上に登っていき、ギミック的な楽しみはない。
ゲームの楽しみを作り手は間違えて捉えていないか?

●物語をゲームの中で説明することを放棄している
説明しなければならないことを、物語の中で丁寧に説明せず、いきなり物語の渦中に説明なく放り込む。
ステータス画面の中の「あらすじ」や「設定」「キャラクター紹介」を読まなければわからない。
しかも、「FF13の物語に関する不満点」に書いたが、設定としてわかっても物語としてどういう役割をしているかはわからない、かゆいところに手の届かない頓珍漢な説明。

●召喚獣が現れることに明確な説明がない。
召喚獣が現れること自体はFFシリーズだから起こってもおかしくない出来事だけれども、だからといって「FF13」の世界で起こる必然性が説明されているわけではない。
以前からあったことを追従しているだけでそのこと自体には意味が無い。
今回はドライブモードというものがあり、シヴァやブリュンヒルデが車やオートバイになって上に乗ることができるのだ。
それ自体にゲーム的な面白さがあればまだわかるのだけれども、ボタンを押すと自動的にムービーが始まり敵にダメージを与える、それだけ。

結論

中学生が妄想でつくったものに、大人が無理やりつき合わされ、辻褄を無理矢理合わさせられている……そんな印象。

 

ペン画漫画

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{{Infobox 作家
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